2017年7月20日木曜日

解釈と共感 書き直し ② 大文字のD 書き直し ③

人は自分の無意識を知りたい、とは神話ではないか?
私はここで解釈ということの意味について考えたいと思う。私たちが解釈ということの意味を考える時の前提となるのが、私たちが自分自身の本当の姿、自分自身の中に隠された部分を知りたいという願望、ないしはその必要性を前提とする考え方である。まずそのことを疑ってみたい。
私の私淑し、その著書を翻訳までした Hoffmann が次のように述べている。
「最初に私が顕在的な問題について、真摯で幅広い関心を示したならば、潜在的な意味についての共同の探索はしばしばその後にやって来るであろう。しかしそれだけでなく、学習されたものはそれが何であっても、常に生々しく生き残るのである。解釈はその他の種類の相互交流と一緒に煮込まなければ、患者はそれらをまったく噛まないであろうし、ましてや飲み込んだり消化したりしないのである。」このことが自己洞察の大変さを物語っている。この文章が初めて意味を持つのは、これが解釈ではなくて、洞察とした場合。というのも私はどのように考えても、分析家に患者の無意識を解釈するような力はないと考えるからだ。
そう、解釈はやさしく伝えられないと人はそれを飲み込めないという。関係論者ならではの発言と言える。しかしこの文章はむしろ、解釈の重要性が今でも論じられていることを意味していることにはならないだろうか? もしそうであるならば、どうしてなのだろうか? それに対して一つの答えは次のようなものである。「人は自分の心の深層を知りたいという欲求を持つのだ。」という主張である。もしそうであるならば、患者の側の無意識を、患者に先んじて見通すことが出来た治療者が与える解釈には正当性があるということになる。そこでその問題から考えたい。
まずは「人は自分のことを知りたいという欲求を持つのだ。」について。それはそうかもしれない。誰でも若い頃は一度ならず、自分の知らない可能性が眠っていると考えるのではないか。私は若い頃楽器の演奏や武道にあこがれたが、ある先生に指導を受けてコツコツ練習していけばうまくなれるのではないかと漠然と考えていた。将来をつくるのは自分だし、いかなる未来も自分の努力次第で可能だ、と思えていた時代。アメリカに渡ったのもそのためだった。語学などはその最たるものである。アテネフランセに通いだしたころは、フランスでの生活を一年でもすれば、自然にネイティブ並みの語学力が身につく、と思っていた。なんという無知ぶりだろう。でもそのようなことを考えるのが人間なのだ。自分の中にはいろいろな可能性が眠っている。それを知りたいというような、一種の宝探しのニュワンスを感じていた人もいたかもしれない。「自分探しの旅をする」ことに魅力を感じるのであろう。精神分析や精神療法を同様なものとみなす人がいてもおかしくないし、私自身にもそのような気持ちがあった。
しかしここで一つ考えてみよう。人は自分のことを知りたいと思っても、自分の心の姿を知る勇気がどれほどあるだろうか?例えば人は自分の中に隠れている才能を知りたいとは思うだろう。しかし自分の中に隠れている才能の欠如や劣っている部分、ないしは病気について知りたいと思うだろうか。それらの場合には好奇心に不安が勝ってしまい、人はそれをむしろ知りたくないと思うのが普通である。例えば私たちはある程度は知的な仕事についていると言えるだろうが、誰が自分のIQレベルを知りたいだろうか?あるいは自分の脳にどこまで、アルツハイマー病の原因物質であるアミロイドベータが溜まって貯まっているかを知りたいと思うだろうか?そう、私たちは自分の隠れた才能や得意分野を知りたいという願望を有するが、自分たちのネガティブなことについてはむしろ知りたくないというのが人情なのである。その意味で、「人は自分のことを知りたいという欲求を持つのだ。」という主張はかなり割り引いて考えるべきなのだ。
それに百歩譲って「いや、自分は悪いところも含めて自分を知りたいのだ」という奇特な人が現れたとして、自分の悪いところを次々と明るみに出されるとしたら、途中できっと治療に来なくなってしまうであろう。人間とはそういうものだ。自分の悪い部分を知る過程では、猛烈な反発が起きてくるであろうし、それはこれまで慣れ親しんだ思考や行動への挑戦に対する強力なエス抵抗が出て来るからだ。
しかしあとで述べるように、それでも止むに止まれず、悪い部分も含めて「自分のことを知りたい」という人が出て来る可能性がある。
問題はこのような時期はいずれは過ぎ去り、人はまた心の安定や自己愛的な居心地の良さを求めるようになるということだ。そこでは人は「自分のことを知りたい
という願望」を再び「自分のいい部分についてはもっと知りたい」という都合の良い願望に置き換えてしまう。
 さらには自分の問題が容易に解決できるようなものではなく、というより生得的な要素が強いために今後もそれと生きていかなくてはならないというときも、この「自分の悪いところを知りたい」という願望は早晩影をひそめてしまうだろう。
たとえば「ふつうに話しているつもりでも人に誤解される、どうしてなのだろう?」と苦しみぬいた末に治療に訪れた患者が、様々な検討を試みた結果、その理由の一つは、人の心を汲み取れるような繊細さにかけている、と指摘されたとしよう。そしてそれをどのように改善したらいいかと問うた場合に、「残念ながらそれはあなたには欠けた能力であり、それを獲得することは難しいでしょう」と言われたとする。もちろん彼はその自分に欠けた能力を補うためにはどのような工夫をしたらいいかと考えるかもしれない。しかし「自分はダメなんだ」と思うことで、もうカウンセリングに通うモティベーションをなくしてしまうかもしれない。
 本当に自分を知りたくなる時
 ただし本当に自分を知りたいと思うときが出てくる。自分の何が問題になっているかについて知りたいと真剣に考えている場合である。これは通常その人の中で守られていた自己愛的な防衛の一角が崩れ、心が深刻な痛みを発している時である。それは自分に漠然とした違和感が生じ、それを何らかの形で明らかにしたいからである。その場合は人はある種の不安を感じ、それを解消する意味でも何が起きているのかを把握したくなる。このようなときは苦しみを味わうとともに、おそらく自分の心に最も向き合う時期であるかもしれない。自分の持つ問題点を自覚し、それを直していくことについてもっとも真摯な興味を持つことにつながるであろう。ある種の修行の期間、指導者や上司の声を受け入れることが自らの向上につながるという現実を受け入れる時期でもある。
しかしそうならば、それに対して「来談者が自ら発見することを手助けする」という分析的なスタンスは、少なくともこの種のニーズにはあっていないということになる。救急に訪れた人に救急医は自然治癒を促進すべくアドバイスをするだろうか。しかも解決の道が患者の心にすでに隠されているというのなら別であるが、おそらく治療者自身にもそれは見えていない。そこからはまさに共同作業が開始されるべきなのであり、治療者はそれに対して受け身的なスタンスを取ることは適切でないということになる。
ここでの考えをまとめると以上のようなものになるだろうか?
自分を知りたい、その援助をしてほしいというニーズに訪れる人に対して、おそらく従来の分析的なスタンスは意味を持つ。しかしそのようなニーズを持つ人はきわめてまれといわなくてはならない(訓練分析を受けに訪れる来談者はここでは除外して考えよう。)自分を知りたいというニーズを持つ人の大半は、それに対して治療者の積極的でアクティブな姿勢を望んでいるであろうし、治療者はそのニーズに対応しなくてはならないのである。
現代の精神分析学はある一つの大きな転換点に来ているといっていいだろう。それは意味はすでにそこに形を整えて存在するというのではなく、析出するということである。それ以前は解離しているということだ。あるいは言葉を得ていず、体験されていないということ。体験する=言葉を有する=想起出来るという点は極めて貴重なことである。
ちなみに悪いところの原因は、それこそ分析的な無意識の影響にはとどまらない。
私が以上の論述から何を言いたいのか? おそらく私たちが治療の目標としてしばしば掲げる「自分をもう少し知りたい」は、きわめて条件付きのものということである。そして「自分をよりよく知ること」を治療の第一の目標として掲げることをやめる時、私たちのカウンセリングや精神療法に対する考え方は振り出しに戻るということだ。

大文字のD 書き直し ③


Historical review

The controversy around the notion of dissociation dates back to Freud. The more we explore his views on dissociation, the deeper we are impressed about how much Freud attempted to distance himself from this idea. It was already obvious in the “Studies of Hysteria” that he co-authored with Joseph Breuer, far before his well known conflict with Pierre Janet on the topic. What is remarkable is that Freud’s attitude toward dissociation as well as dissociative patients replicates itself in current psychoanalytical sessions as was demonstrated by the initial short vignette.
 
 When Freud realized that many hysterical patients suffered from childhood abuse and trauma, he prompted Breuer into writing the book with him. Freud proposed that there are different types of hysteria, such as “hypnoid hysteria” as well as “retention hysteria” and “defense hysteria”. However, his dissatisfaction with Breuer's idea of hypnoid (dissociative) state was obvious in the same book. In the last chapter of the “Studies of Hysteria” (Freud, 1895, p.286)
Now both of us, Breuer and I, have repeatedly spoken of two other kinds of hysteria, for which we have introduced the terms ‘hypnoid hysteria’ and ‘retention hysteria’. It was hypnoid hysteria which was the first of all to enter our field of study. I could not, indeed, find a better example of it than Breuer's first case, which stands at the head of our case histories. Breuer has put forward for such cases of hypnoid hysteria a psychical mechanism which is substantially different from that of defense by conversion. In his view what happens in hypnoid hysteria is that an idea becomes pathogenic because it has been received during a special psychical state and has from the first remained outside the ego. No psychical force has therefore been required in order to keep it apart from the ego and no resistance need be aroused if we introduce it into the ego with the help of mental activity during somnambulism. And Anna O.'s case history in fact shows no sign of any such resistance.
I regard this distinction as so important that, on the strength of it, I willingly adhere to this hypothesis of there being a hypnoid hysteria. Strangely enough, I have never in my own experience met with a genuine hypnoid hysteria. Any that I took in hand has turned into a defence hysteria. It is not, indeed, that I have never had to do with symptoms which demonstrably arose during dissociated states of consciousness and were obliged for that reason to remain excluded from the ego. This was sometimes so in my cases as well; but I was able to show afterwards that the so-called hypnoid state owed its separation to the fact that in it a psychical group had come into effect which had previously been split off by defence. In short, I am unable to suppress a suspicion that somewhere or other the roots of hypnoid and defence hysteria come together, and that there the primary factor is defence. But I can say nothing about this. (Studies of Hysteria,1895, p285., stress added by Okano)
Freud did not forget this issue and later made it clearer even in “Dora’s case”, as follows.
…I should like to take this opportunity of stating that the hypothesis of ‘hypnoid states’—which many reviewers were inclined to regard as the central portion of our work—sprang entirely from the initiative of Breuer. I regard the use of such a term as superfluous and misleading, because it interrupts the continuity of the problem as to the nature of the psychological process accompanying the formation of hysterical symptoms. Fragment of an Analysis of a Case of Hysteria (1905) P27 Underlined by Okano
 Why was Freud so much opposed to the idea of “hypnoid state” that he later considered  “superfluous and misleading”? Because the latter presupposes the splitting of the mind, which, according to him was not a dynamic explanation. Freud’s stance is clearer in his statements found in the “Psychoneuroses of Defense" (1894), in which he chose also Janet as a target of his criticism of the same nature.
Let me begin with the change which seems to me to be called for in the theory of the hysterical neurosis.
Since the fine work done by Pierre Janet, Josef Breuer and others, it may be taken as generally recognized that the syndrome of hysteria, so far as it is as yet intelligible, justifies the assumption of there being a splitting of consciousness, accompanied by the formation of separate psychical groups.1 Opinions are less settled, however, about the origin of this splitting of consciousness and about the part played by this characteristic in the structure of the hysterical neurosis.
According to the theory of Janet (1892-4 and 1893), the splitting of consciousness is a primary feature of the mental change in hysteria. It is based on an innate weakness of the capacity for psychical synthesis, on the narrowness of the ‘field of consciousness (champ de la conscience)’ which, in the form of a psychical stigma, is evidence of the degeneracy of hysterical individuals.
In contradistinction to Janet's view, which seems to me to admit of a great variety of objections, there is the view put forward by Breuer in our joint communication (Breuer and Freud, 1893). According to him, ‘the basis and sine quâ non of hysteria’ is the occurrence of peculiar dream-like states of consciousness with a restricted capacity for association, for which he proposes the name ‘hypnoid states’. In that case, the splitting of consciousness is secondary and acquired; it comes about because the ideas which emerge in hypnoid states are cut off from associative communication with the rest of the content of consciousness.2
I am now in a position to bring forward evidence of two other extreme forms of hysteria in which it is impossible to regard the splitting of consciousness as primary in Janet's sense. In the first of these [two further] forms I was repeatedly able to show that the splitting of the content of consciousness is the result of an act of will on the part of the patient; that is to say, it is initiated by an effort of will whose motive can be specified. By this I do not, of course, mean that the patient intends to bring about a splitting of his consciousness. His intention is a different one; Freud, “Psychoneuroses of Defense" 1894, p.46, stress added by Okano.