2017年7月30日日曜日

カオスの縁と弁証法(おおげさだ)

カオスの縁と弁証法

私たちはよくこのようなことを考える。この人は私のことを本当に思ってくれているのだろうか?それとも利用しているだけなのだろうか? たとえば私は最近あるお弟子さんと共同で仕事をした。彼はおそらくこう考えるかもしれない。「彼は単に私を利用しているのだろうか?それとも私を育ててくれようとしているのだろうか?」でも彼はそれに悩まないだろう。この問題が面白いのは、おそらく答えはどちらもあり、ということであり、そのことを知っているからである。
正常な倫理観を持つなら、人を利用したり搾取したりすることなかれ、という気持ちが自分が得をしたいという自然な願望とのバランスを取るだろう。するとお互いに利益になるように、ウィンウィンにするという原則に従うようになる。だからこれは一種の商取引と同じかもしれない。客はなるべく安く買いたい。売る側は高く売りたい。ただしその両者は他人の関係であり、私情は普通はあまり入らない。するとお互いに自分が得をした、という形で取引が成立するのである。
ここで一つ面白いことがある。私たちは「あのスーパーで高いものを買わされて、裏切り行為をされた。トラウマになった」ということにはならない。「あそこの魚屋さんは私のためを思って魚を売ってくれていると思ったのに、結局は自分たちが得をしたかったのだ。」とはならない。アメリカならすぐ返品するだけである。(日本にはこのシステムはないなあ。)ところが個人どうしお互いをかなり知っている場合には、そこに情が絡む。「お互いに相手のことを思いやり、相手の利益を第一優先にしている」という幻想が形成される。お互いに相手のためにやっている、と思い込む。これは実際におきうることである。母親が子供に何かをしてあげるとき、母親は子供に同一化し、ある意味で子供と一心同体になり、子供が喜ぶであろうと想像することをする。子供の体験は少なくとも母子関係においては、「誰かが自分のために何かをしてくれる」をデフォールトとするものだ。そんな馬鹿なことをと思われるかもしれないが、子供は与えられた状況を当たり前のものとして受け入れるように出来ているのであるから仕方がない。これを分析的には万能感という言い方をするが、子供は同時に自分に何でも与えてはくれない数多くの対象に囲まれているわけであるから、極めて限られた万能感といわなくてはならない。しかしこの「初期値」は決定的で、おそらく子供はそれ以後、「自分に自己犠牲的に何でも与えてくれるような母親」を髣髴させる対象としてしか安心して関係を結べないようになる。
ここに友人Aさんを考える。彼は私にいろいろなことをしてくれる。私のことを思ってそうしてくれていると思う。ところがAさんは自分の得になるからそうしていたと言うことがわかる。つまりAさんが母親的に、自分に同一化してくれて、その分私にしてくれることは「持ち出し」だったのだという幻想が崩れる。
このように考えると対人関係は自分を利すると他人を利するの境界線を揺れ動くというのがふつうのあり方であることが分かる。両者は弁証法的に常に動いているのだ。