2017年7月10日月曜日

脳科学と精神療法 ⑦

 これをパーセプトロンと思ってください。パーセプトロンというのはある意味で巨大なあみだくじにたとえることが出来ます。どういうことが起きているかを知るために、囲碁のある局面を入力するとあみだくじを経て最善の着手がどうだ(あるいは過去に勝利に繋がる場合の着手はこうであった)という出力が出るように、あみだくじに桁、つまり横線が書き加えられていくというプロセスを想像してください。要するにこの入力の時にはこういうふうな出力ですよ、という情報を何千、何万、何百万という形で学習させると、巨大なあみだくじはこういう具合にはこう、こういう具合にはこうというように最善手を打つようにケタを増やしていく。あみだくじの横線を一本加えて、桁を増やしていくというのが学習だということです。
 人間の脳というのは巨大なあみだくじとなると、人間の脳というのはコンピュータなのかということになってしまいます。そしてそこには様々な外的なファクターが加わります。例えばサブリミナルメッセージを与えられると、そこに引っ張り寄せられてくるわけです。「敵」という言葉を、スクリーンに20分の1秒以下見せると、皆さんは意識はしないんだけれども、敵対的な行動を取る、友達という文字を皆さんの気がつかないようにサブリミナルに流すと、友好的な態度を取る、という風に、直前に入ったインプットがなぜかその人の行動を決めることが起きると報告されています。そしてその人はその行動を起こした理由を知らない。不思議な現象です。サブリミナルメッセージによってもこんなに左右されてしまう。
 これでは全く説明にならないと思ったので、昨日、頑張ってこの絵にさらに手を加えてみました(図は省略)。これも本当に何のことやらわからないと思うんですけれども、インプットというのはいくつかの表象や特徴だから、何種類かのインプットがある。例えば動物を見て犬とわかる前にいくつかのインプットがあって、いろんな経路を通じて、最後に集約されて「ワンちゃん」となる。でも、人間の場合はここに精神分析でいうコンプレックスや外傷記憶みたいなものがある。あるいは楽しい記憶だと引き寄せられて、外傷記憶だとそれを避けるようにして、サブリミナルメッセージみたいなものがあったりして、最終的にこうなっていく。この集約をする時に、先ほどのダーウィニズムが働くということです。
 ただし人間の脳とニューラルネットワークとは同じではありません。脳には大事なものがくっ付いている。それは報酬系です。私の考えでは動物が生命を維持して子孫を増やしていく中で、報酬というのがどうしても必要で、その報酬が上から下へ流れる力になっている。これがニューラルネットワークの場合にはないです。
 時間的にあと13分しか残っていないので、今日一番言わなくちゃいけない部分に入ります。冒頭にも言いましたように、新無意識という概念を御紹介します。ニューアンコンシャス。そういうタイトルの本が出てくれたので、ああよかったと思って使えるわけですけれども、実はこれを読んでみても、ニューアンコンシャスとは何ぞや、ということは残念ながらどこにも明言されていないのです。今日お話したようなことがたくさん出てくるだけです。

 そこであえて絵にするとこんな感じです。フロイトの意識と無意識はかなりはっきり分かれている。意識の範囲が大きいです。この図式は私が作ってみたんですけれども、新無意識は非常に広い範囲(図の赤い部分です)で、意識のエリア(上のほうの青い部分)は本当にわずかです。最近では意識はワーキングメモリーと同じだと言うことになっているようですが、そうすると7ケタの数字、たとえば電話番号を忘れないようにしているとしたら、他に何もできなくなるぐらいに意識というのは狭いです。例えば昔のクジでガラガラとハンドルを回してポンと玉が出てくるじゃないですか。意識とはあの玉ぐらいの広さだと私は思います。要するにそれ以外の大部分が新無意識であり、もっと言えば意識の部分はひょっとしたらないのかもしれない。意識があるとしたら、それは幻想だと言うんです。
この絵の青色の意識部分の周辺を、私はカオスの縁と呼んでいますが、ここで様々な表象が先ほどのダーウィン的なプロセスでもって浮かび上がってくる。曲にしても小説のストーリーにしてもここに浮かび上がってくると考えるしかない。
 そこで★印をたくさん書いて雰囲気を出しています。
さてここには欲動はどう絡んでくるのでしょうか? 欲動というものは特にないそうです。フロイトの無意識には欲動が詰まっていて、それが人を突き動かすと考えられてきた。ところが、新無意識を探しても何も出て来なくて、ただただ大脳皮質があって、それプラス基底核、辺縁系です。辺縁系がどういう役割をしているかというと、いわばそこを刺激したらある感情や情動が生まれるという形で、それが情動や言動という形でのアウトプットに大きな影響を与えるというわけです。
 ちょっとこれは極端な言い方かもしれないですけど、最終的に重要なのは報酬系と本能ということになります。我々の脳は、単なるパーセプトロンではなく、そこにそれを駆動するような報酬系が存在するのです。つまりそれが快か不快かということで人間の生き方が決まってきます。また本能は巨大なあみだくじの一部に、数多くの桁を無視して一気にアウトプットに至るような仕組みもあり、それは経験とは別に発動するわけです。
 この様に考えると、新無意識はそれぞれの自我、超自我、エスのほとんどを包含してしまいます。他方では意識はワーキングメモリー程度しかない。繰り返しますが、最近、意識の定義として心理学者たちはワーキングメモリーと同じなんじゃないかと言っていて、私は最初は何の事だかわからなかったけれども、要するにコンピュータでいうとラムスペース、一時的に記憶を補完する作業用の小さな机のようなものと考えればいいでしょう。私が1994年にコンピューターを使いだしたころは、最初はラムが16メガバイトだったんですよ。ちょっと無理なことをやるとフリーズばっかりしていました。それが今やギガバイトのレベルです。そこに一時的な記憶をためておく。それが意識だというんです。たとえば私がこうして話していても、話す内容はだいたい頭に入れてきましたが、次に何をいうかということは、その瞬間ごとにこのラムスペースで決めているところがある。ちょっと時間が押しているみたいだから、この話は省略しようとか。それ以外はあまり意識は活動せず、話の内容は無意識から降ってくるという感じです。意識の中身は新無意識で常に自動的に生産される感じです。そしてその一部はダーウィニズムによって選択される。そこに幸いにも主体性、自律性の感覚が伴うのです。ですから、ダーウィニズムでポンと出て来たものは、時々「えっ、これが僕の選択だったのか?」みたいなことになる場合がある。しかしだいたいの場合は新無意識の質が良ければ、口に出てきたことはこれまで言ってきたことと首尾一貫したようなこと、やろうとしていたことに合致しており、「これは僕の言った言葉だ」という感じを生むのです。けれども出てきたものというのは実は新無意識がサイコロを振ってそこで決定さているという要素は常にあるのです。
 もちろんこれを聞いている皆さんの中には、「そんなことないよ」とおっしゃる方もいるかもしれません。でもこの件を考えていくとそうなんです。新無意識では一貫性、プライオリティー、排他性を生み出した行動、ファンタジー、夢が生き残り、意識に上って意識によって肯定される。例えば「はい」と手を挙げた時に、あれ、自分はどうして手を挙げたんだろうみたいなことはよくあるんですけれども、それはそうです。なにしろ皆さんの新無意識が手を挙げさせているんですから。手を挙げるつもりだったというふうに考えていたんだとすると、それは自分の決定したものだと考える。