2017年5月6日土曜日
カオスの淵 ⑥
この世に溢れている生命体を考える限り、自己組織化には、それ本来のすさまじい力があると考えるべきであろう。昆虫の群れや大移動するヌースの群れなどを見ていて思うのは、動物の複製能力のすさまじさであり、それが二重螺旋構造のDNAに発して、一つのプロセスも狂うことなく(といってももちろん必要な redundancy 余剰性が備わることで、一つのプロセスが狂っても他がカバーする仕組みがあることで)生命体を作り上げていくということである。自己組織化は、ほっておけば自然とそうなってしまうほどの内的な圧力を持っているということか。中屋敷均という先生の「生命のからくり」を読んでいたら、タバコモザイクウイルスの構造は、基礎部分があれば、試験管の中でさえ「自然と組みあがっていく」ことが分かっているという。おそらく生命体の発生もDNAがあればよほどの妨害が入らない限り「自然と組みあがっていく」のであろうし、そもそもDNAのあれほど複雑な構造が、生命が生まれる過程で自然と組みあがって行ったということなのであろう。ましてや夢だってひとりでに自然と組みあがっていくのであろうし、心もそうであろう。思考も、自己意識も自然と組みあがっていくことに何の不思議はない。そしてその自然さの基本にあるのは、きわめて細かなトライアンドエラーであろう。丁度タバコモザイクウイルスの構造が組みあがっていく「自然さ」とは実は、出来上がっていく途中の構造に様々な物質が付きあたってははじかれ、ちょうど「シンデレラのガラスの靴」現象が極めて短時間の間に膨大に起こり、それこそたまたまそこを通りかかった適合する分子がそこに定着する、ということを続けていくというわけである。このプロセス自体はまさに非線形性といえるのではないだろうか。というのもタバコモザイクウイルスの構造とは違い、ある出来かけの構造にフィットする部品(概念、言語)は一つではなく、さまざまなものがありうるからである。