さて人の思考についても同じようなことが起きていると考えることが出来る。
治療者が「いまここ(治療場面)でどのように感じていますか?」別に同世代の親しい異性に「私のことをどう思っているの?」と問われたという場合でもいいのであるが。もちろんあなたにはその相手に対する様々な気持が沸き起こっている可能性がある。親しみ、煩わしさ、恐れ、過去にかけられた言葉に対する怒りや恨み・・・・。その相手と過ごす空間にも、安心感を与える面、息苦しい面、遠慮をして自由にものが言えないという面、しかしそれとは逆に開放感を感じるという面。どれ一つとして「まさにこれだ!」と言い切れない場合もあるだろう。しかし社会的、社交的な場面では、それを分節化 articulate する必要がある。そこでそれを厳選するわけだが、そこでランダムウォークが起きる。例えば「まあ気楽に話せます」と「すごく気楽に話せます」の両方がチョイスとして残る。「まあまあ」と「すごく」にはかなりの差があるが、おおむね肯定的な返事である点は一緒だ。
「すごく」には明らかに誇張が入り相手に媚びている気がする。しかし相手に好印象を与えて、これからの相手との関係がより良好になるのは悪いことではない。だが相手への迎合というニュアンスがあり「まあまあ」だと不満のニュアンスが含まれる気がするが実際のところはその程度だと思っているから本心に近く、それを言うことは余計なフラストレーションをためないことになるだろう。どちらも一長一短があるがそろそろどちらかに決めなくてはならない。そこで最終的にサイコロが降られることになるが、個々の部分は特にランダムウォーク的と言えるだろう。そう、人間の言動のランダム的、非線形的な性質は、行動を起こす際の期限がたいていは定められていて(言葉を一定のリズムで発していかなくてはならない時、など)サイコロを振らざるを得ないという状況におかれることが多い、ということだ。