筆者はもう老境にあるが、一つこの年になって出来ることがある。それは過去半世紀を振り返り、様々な日本社会の変化を実体験をもとに論じることが出来ることだ。それをもとに言えば、日本人のサービス精神は、少なくとも外見上は以前にも増してはっ帰されている印象を受ける。しかしそれは日本人の精神がより高められ、博愛的になったことを意味する分けではないであろう。むしろサービスそのものがマニュアル化され、規格化されているのである。コンビニを訪れれば「いらっしゃいませ、こんにちは」というちょっとおかしな声を常にかけられる。レジの店員は余裕がある
ときは最敬礼といった感じで客を迎える。駅を利用すると改札の出口で、「御利用ありがとうございました。」と声をかけられる。やがて気がつくのである。これはマーケティングの戦略なのだ、と。そして明らかに客は丁寧な応対をするサービスを利用するのである。そして同時に私たちは年々向上していくおもてなしのレベルにすぐ慣れていく。レジで客の顔をあまり見ずに、挨拶の声も小さい店員にであうと、若干の不快感を覚える。「こちらはお客様なのに・・・」少し虫の居所が悪い客なら、「その態度はナンだ!」と怒り出すかもしれない。半世紀前の日本であったら当たり前の客対応が今は客の怒りを生む様になってきている。
普通の人に生じるモンスター化
ここで再び問うてみたい。モンスターたちは、深刻な自己愛の病理や、未熟なパーソナリティを有した人たちなのだろうか? 本書では、私は彼らを、一種の自己愛者ととらえている。しかしそれは彼が社会のある状況下で、一時期的にそうなる、という意味である。そのことは、モンスターと言われる人たちを観察してみるとわかる。
モンスターと言われる人々の多くは、曲がりなりにも普通の社会人として機能している人たちだ。
モンスターと言われる人々の多くは、曲がりなりにも普通の社会人として機能している人たちだ。
学校で教師の悩みの種となっているモンスターペアレントたちは、家庭でも仕事場でも有能さを発揮し、夫婦仲も良好であることが多い。だから二人で足並みをそろえて学校に要求をし、批判をする。少なくとも社会適応ができているのだ。学校側を困惑させる例として本などに描かれるモンスター・ペアレントたちは、曲がりなりにも家庭を築き、「子ども思い」で「熱心な」親で通っている。家族のあいだに重大な亀裂が生じている様子はないのが普通だ。最近では夫婦が歩調を合わせて、あるいは親子が連携してモンスター化するとさえ伝えられているのである。彼らは主婦として、会社員としてそれなりの機能を果たしている以上、彼らを病的なパーソナリティの持ち主と考えることには無理がある。更に言えば、私の印象では、モンスター化する人たちは性格的にも特に特徴となる点のない、私たちの中にもたくさん存在するような人々なのである。クライエントとして店や企業と関わったり、子どもの通っている学校側と対峙したりする状況で、あたかもスイッチが入ったかのようにクレームを付け出す。かといって彼らが社会のあらゆるサービスにクレームを附けるわけではない。それどころか彼らは職場では、彼ら自身が顧客からのクレーム対応に追われているかもしれないのだ。、彼らは「魔が差して」しまったかのように無理難題を持ち出す、ということが起きているようである。(p.68
l.8~l.16)
学生運動の闘士たち
老境の筆者が身を持って経験し、若者に語ることが出来るのが、学生運動だ。一九六〇年代、七〇年代にわが国だけでなく、世界各地で学生運動が生じたが、あれも一種のモンスターか現象と言えるだろう。普段はおとなしい、ごく普通の学生が教授に向かって信じられないほどの怒りや攻撃性を向ける。そのシーンだけを見たら、当時の学生たちのナルシシストぶりに驚くだろう。敬意を表し、その教えに従うべき教師を、逆に威嚇し恫喝する。それは強烈な快感と、同時に深刻な後ろめたさを伴う行為だったに違いない。大学を封鎖し、東大のように前代未聞の入学試験注視の事態にまで陥った例もある。1969年のことだ。その学生運動の一翼を担った人々はいわゆる団塊の世代。いわゆる団塊の世代だが、彼らはもう職場での退職の時期を次々と迎えている。彼らが職場でもクレーマーぶりを発揮して上司を困られたという話を聞かない。それどころか彼らは管理者の側になり、あるいは経営者として様々な要求やクレームを処理する立場に立ってきた。