自己欺瞞って、噓よりも重要なテーマかもしれない
サルトルの言う自己欺瞞の意味するところは、社会的なプレッシャーにより、自分の内側から出てくる自由や心のそれにより信じるに至っている行為を捨てて、誤った価値観を持つこと、という意味とされる。もう少しわかりやすく言えば、「自分を偽る」、ということだ。Aという思考や感情を持っていることをどこかで自覚しているはずながら、自分自身にとってもそれを持っていないことにする。
サルトルの言う自己欺瞞の意味するところは、社会的なプレッシャーにより、自分の内側から出てくる自由や心のそれにより信じるに至っている行為を捨てて、誤った価値観を持つこと、という意味とされる。もう少しわかりやすく言えば、「自分を偽る」、ということだ。Aという思考や感情を持っていることをどこかで自覚しているはずながら、自分自身にとってもそれを持っていないことにする。
本書は哲学書ではないから、ここからはサルトルの自己欺瞞のテーマからは離れて「自分自身に嘘をつくこと」という理解を前提として議論しよう。すぐ明らかになるのは、自己欺瞞は、虚偽(きょぎ)、嘘、とも違うということだ。虚偽や嘘は自分が他人に対して嘘をついているという自覚がある。つまりAの存在を自分自身には認めているのだ。前章で扱った「弱い嘘」では、釣った魚が実際には四尾だけであったことを知っているのだ。ところが自己欺瞞はそれがあいまいになっている。おそらく四尾だった、ということは心のどこかにあるのだろう。そして同時に、六尾だったのだ、と自分に対しても周囲に対しても言うのだ。だから自分にも嘘をついている、というわけである。ちなみにこの自己欺瞞とは、心の理論の代表格である精神分析理論には出てこない。しかし実際には分析で言うところの「否認」に類似するものと考えることが出来るだろう。
さてこの自己欺瞞の問題がどうして報酬系と関係するかと言えば、これもまた結局は自己中心性、自己愛傾向、他人を利用して自己を利するという問題と複雑に絡んでいるからである。わかりやすく言えば、自己欺瞞もまた、私たちの多くに心地よさをもたらすのであり、だからこそ私たちはこれを捨て去ることが出来ないのである。でも明確な嘘と違い、自己欺瞞は非常に微妙な、目に見えない形で生じる。ひょっとしたらすべての人間が、多かれ少なかれ自己欺瞞を抱え、またそれを自分も知らず、他人にも明確な形では露見せずに済まされている。その意味では自己欺瞞こそが万人に共通した問題であり、そして一番論じるのが難しい問題なのだ。哲学者サルトルをもってして始めてクローズアップされた問題といえるだろう。ただし自己欺瞞はおそらくそれを行っている周囲の人は、「あの人は何かおかしい」「理由は分からないが、どうも信用できない」という漠然とした感覚を持つかもしれない。そう、自己欺瞞の存在は周囲の人間により、それこそ動物的な勘でその存在が気付かれるものなのだ。