2016年12月30日金曜日

自己開示ってナンボのものだろう? (推敲後)



また仲間の先生方と本を作った。「臨床場面での自己開示と倫理」(岩崎学術出版社)である。共著者の横井先生、吾妻先生、富樫先生はいつも研究会を行っている、互いに気心の知れたお仲間である。この本の題名に盛られた「自己開示」は、未だに臨床家の間では問題になることが非常に多いが、これを正面から扱った本は皆無と言ってよい。(実際ア●ゾンで「自己開示」を検索することで、それが確かめられる。ほとんどゼロ!)その意味では珍しい本と言ってよい。
「自己開示」は精神分析家たちにとっては古くて新しい問題だ。フロイトの「匿名性の原則」以来、いまだに彼らにとっての論争の種である。
 この間京都大学に客員教授でいらしたある英国精神分析学会の先生は、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれたが、私が何かの話の中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という趣旨のことを言った際に、キラリと目が光った。そして明確に釘をさすようにおっしゃった。「自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」

精神分析のの世界では人格的に優れ、非常に尊敬している方でも自己開示となると無条件で反対である。
 私は当惑を禁じえない。どうしてここまで自己開示は否定されるのか。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」という立場を取っているわけではなく、「適切な場合ならする、不適切な場合はしない」と言っているだけだが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示は自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はなさそうである。それはそうであろう。治療者のオフィスには所持品があふれ、治療者が発表した書籍や論文はある意味では自己開示が満載である。あるいは治療者として発した言葉の一つ一つが、彼の個人的な在り方や考えを図らずも開示していると言うのが、現代的な考え方の一つである。
 
臨床家の自己愛問題
私が最近思うのは、自己開示の問題には臨床家の自己愛が深く関係しているということである。「臨床場面での自己開示と倫理」にも書いたことだが、私自身はむしろ「臨床家は自己開示をし過ぎる危険がある」と考えているくらいだ。有名なフロイトの研究でも、彼自身は、43例すべての患者に対して自己開示をしていたというのだ(Lynn, et al, 1998)。「自己開示反対」は、自己開示をしたい分析家のいわば反動形成的なところがあるのではないかとさえ思う。そこには分析家自身が自分の考えに対して過剰に自信や思い入れを持つ傾向もあろう。
 そこで本稿の表題「自己開示ってナンボのものだろう?」となる。かなりくだけた表題だが、私が言いたいのは、「臨床家は、自分の自己開示にいったいどれだけの価値があるのだろう?と疑いの気持ちを持つべきだ」という提言のつもりである。治療者が自己開示を回避する姿勢は、その見かけ上の価値やインパクトを結局引き上げていることになりはしないか? 
自己開示をめぐる問題を深く掘り下げて考えていくと、もう一つの自己愛の問題に到達する。自己開示を回避することは治療者にとって圧倒的に自分自身のプライドや権威を保つことを助け、いわば精神的なエネルギーの節約にもなる。要するに治療者側にとって好都合な要素がそこにたくさんあるわけだ。それがどうしても「患者のためなのか」という議論に優先する。 
 ここで整理しておこう。分析家の自己愛問題は「自己披瀝をする」という方向にも、「自己開示をしない」方向にも両方かかわるということだ。これは興味深い事実である。要するに自己愛的であるということは、「自分の自慢したいことを語り、本当に恥ずかしいことやプライベートなことには口をつぐむ」ということである。

かつてハインツ・コフートは聴衆の前で自分の知識を延々と披露する一方では、個人的なことを聞かれることに不快感を示したという。自己愛的な治療者にとっては、クライエントから個人的なことを一方的に尋ねられたり、自分の気持ちを表明することはかえって心が痛むのだ。そこで私がしばしば学生に伝える以下のメッセージとなる。「治療者は自分の体験を話すことを望まれたらいくらでも披露する用意を持ちつつ、しかし自分の余計な話を極力するな」。
 この私の立場は実は私のもう一つの考えである「ヒアアンドナウを簡単に扱えると思うな」にも通じる。これも一見矛盾した言い方に聞こえるだろう。私がヒアアンドナウの転移解釈を安易に用いるべきではないと思うのは、セラピストがそれを扱う用意がしばしば不足しているからだ。「あなたが時間に遅れてきたのは、治療に対する抵抗ですね」は、セラピストが冷静な気分でないというべきでない。さらにはクライエントの遅刻が実際の抵抗である可能性がかなり高くないと意味がない。また「あなたが遅れたのは治療に抵抗していますね」という治療者の側の見立ての自己開示ということになるということを勘案しなくてはならない。ヒアアンドナウが真に変容的(mutative, Strachey)であるというテキスト通りの理解に沿ったものである以上に、クライエントにとっての重要な提案であるからそれを行うのであり、「正しい分析」を行うためではない、という条件もクリアーしなくてはならない。これだけのハードルを越えて行われるヒアアンドナウの転移解釈はごく限られた機会にのみ行われることになるであろう。
臨床家が自分の自己愛をチェックする
ここで臨床家が深い自己愛の病理に陥っているかどうかを自分でチェックする方法を考えた。こんなことを患者から問われたことを想像するのである。
「先生も人間としての悩みをお持ちですか?」 
もちろん突然こんなことを実際にクライエントから尋ねられたら治療者は驚くだろうし、その背後にあるものを考えたくなってしまうだろう。だから相手から真剣に、あるいは恐る恐る尋ねられた場合を想定するのだ。自分が患者を援助する立場にある、というだけでなく無意識的に自分は患者より優れている、上の立場にいるという気持ちを持つ場合には、この質問をかなり侵入的で攻撃的にすら感じるだろう。

「この患者は自分の問題を扱われることを回避して、私を自分と同様の立場に引き込もうとしているのではないか?」
「この患者は明らかに治療に対する抵抗を示している。」

でも患者は目の前の治療者が自分とは異なる超人的な人間であり、自分のような人間的な悩みは持っていないというファンタジーと一生懸命戦っていて、ふとこのような疑問が出ただけかもしれないであろう。そう、この種の自己開示のリクエストにどれだけ抵抗を示すかが、その治療者がいかに自己愛的なスタンスをもっているかの明確な指標となるのである。