2016年12月28日水曜日

自己開示ってナンボのものだろう? 2

自己開示をめぐる問題を深く掘り下げて考えていくと、確かにその一つは自己愛の問題に到達する気がする。自己開示をしないことは治療者にとって圧倒的に自分自身のプライドや権威を保ち、「エネルギーの節約」でもある。要するに治療者側にとって好都合な要素がそこにたくさんある。それがどうしても「患者のためなのか」という議論に優先する。議論がこの方向に進んでしまうことは私の偏見なのだろうか?
 家人は医師と接する機会が多く、その話をよく聞く。家人は社会福祉士として、患者に付き添って医師を訪れるが、家族の側に立つ人としてみる医師はおおむね非常に権威的で上から目線であると言う。そしてそれをいろいろ描写してくれるのだが、いろいろ思い当り、なるほどと思う。患者に対する治療者も同様の「上から」は、もう前提となる。たとえ治療者当人がいかに否定しても。すると患者を前にして自分を語らない(あるいは自分の話を披歴する、でも結局同じことだ)というのはあくまでもその「上から」に合致するのである。
 この自己愛問題は「自己開示をしない」でもあり「自己披瀝をする」でもあるという事実は矛盾しているようで面白い。自己愛的である、とは「自分の自慢したいことを語り、本当に恥ずかしいことやプライベートなことには口をつぐむ」ということである。かつてコフートは聴衆の前で自分の知識を延々と披露する一方では、個人的なことを聞かれることに不快を示したという。クライエントから個人的なことを一方的に尋ねられたり、自分の気持ちを表明することはセラピストにとっては心が痛むのだ。
治療者は自分の話でよければ披露する用意を持て、しかし自分の余計な話をするな」という立場は、私の「ヒアアンドナウを簡単に扱えると思うな」にも通じる。これも一見矛盾した言い方に聞こえるだろう。私がヒアアンドナウの転移解釈を安易に用いるべきではないと思うのは、セラピストがそれを扱う用意がしばしば不足しているからだ。「あなたが時間に遅れてきたのは、治療に対する抵抗ですね」は、セラピストが冷静な気分でないというべきでない。さらにはクライエントの遅刻が実際の抵抗である可能性がかなり高くないと意味がない。また「あなたが遅れたのは治療に抵抗していますね」という治療者の側の見立ての自己開示ということになるということを勘案しなくてはならない。ヒアアンドナウが真に変容的(mutative, Strachey)であるというテキスト通りの理解に沿ったものであるが、あくまでもクライエントにとっての重要な提案であるから行うのであり、「正しい分析」を行うためではない、という条件もクリアーしなくてはならない。これだけのハードルを越えて行われる転移解釈はごく限られた機会にのみ行われることになるであろう。