「退行」概念の治療への応用可能性 - 筆者の考え
最後に筆者の考える退行の概念の意義について論じたい。退行の概念は、依然として精神療法への応用にされるべき重要な概念であろう。松木(2015)が指摘するとおり、旧来の退行の概念には一者心理学的なニュアンスがあり、二者心理学や関係性の文脈に位置する転移概念とは性質が異なる。そのために退行は発展的に転移の概念に吸収されるべきであるという立場もあろう。すなわち退行も治療関係上に生じた転移の一つの形態として理解しうるものという考えだ。
しかし筆者は転移の理解を必ずしも退行の取り扱いに優先されるべきものとして重んじる必然性はないと考える。治療促進的な退行は、そこで転移現象が生じるような場として、まずは醸成されるべきものである。退行が明白な形では生じない治療関係における転移を取り扱うことに臨床的な価値は少ないであろう。
一つ端的な例を挙げてみよう。治療者が表情を変えずに黙って話を聞いているだけなので、怖い父親のように思える様になり、治療者はそれを解釈した、という場合はどうだろうか? これも立派な転移及びそれに引き続く転移解釈といえるであろうが、治療関係がこのままではどこにも着地点を見いだせないであろう。なぜなら治療のある時点で患者が「実は先生のことを、初めは怖いお父さんと同じように感じていたんですよ。」と心の裡を話せるようになるためには、そのような雰囲気を生むような関係性の成立こそが前提条件となるからである。そしてそこで成立しているのは、患者がある種の親しみと安心感を持ち、リラックスできるような関係性である。問題はそれにふさわしい用語が見つからないことであり、それが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにあるのである。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味での退行は土居の文脈では甘えられる関係と呼んでよく、また Balint の分類では、良性の退行に相当するであろう。
しかし筆者は転移の理解を必ずしも退行の取り扱いに優先されるべきものとして重んじる必然性はないと考える。治療促進的な退行は、そこで転移現象が生じるような場として、まずは醸成されるべきものである。退行が明白な形では生じない治療関係における転移を取り扱うことに臨床的な価値は少ないであろう。
一つ端的な例を挙げてみよう。治療者が表情を変えずに黙って話を聞いているだけなので、怖い父親のように思える様になり、治療者はそれを解釈した、という場合はどうだろうか? これも立派な転移及びそれに引き続く転移解釈といえるであろうが、治療関係がこのままではどこにも着地点を見いだせないであろう。なぜなら治療のある時点で患者が「実は先生のことを、初めは怖いお父さんと同じように感じていたんですよ。」と心の裡を話せるようになるためには、そのような雰囲気を生むような関係性の成立こそが前提条件となるからである。そしてそこで成立しているのは、患者がある種の親しみと安心感を持ち、リラックスできるような関係性である。問題はそれにふさわしい用語が見つからないことであり、それが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにあるのである。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味での退行は土居の文脈では甘えられる関係と呼んでよく、また Balint の分類では、良性の退行に相当するであろう。
またこのように考えると、退行の中には、明白な転移が生じていない場合もありうる。そのような安心でき、甘えることの出来る関係を過去に主たる養育者との間でそもそも持てなかった可能性があるからだ。
ところで甘えの見地から退行を考えることは、そこに患者の側の甘えを許容する治療者の側の態度も重要な要素となるという視点を促す。そもそも治療を促進する退行が成立するためには治療者の非防衛的な態度や適度の能動性が要求されることになろう。ある意味では治療者もまた患者に「甘え」られる必要があるのである。そしてそれは長期精神療法がなぜそれだけ時間がかかるのかということに対する回答ともなっている。適切な甘えの関係の醸成には時としては長い時間がかかるのである。
ところで甘えの見地から退行を考えることは、そこに患者の側の甘えを許容する治療者の側の態度も重要な要素となるという視点を促す。そもそも治療を促進する退行が成立するためには治療者の非防衛的な態度や適度の能動性が要求されることになろう。ある意味では治療者もまた患者に「甘え」られる必要があるのである。そしてそれは長期精神療法がなぜそれだけ時間がかかるのかということに対する回答ともなっている。適切な甘えの関係の醸成には時としては長い時間がかかるのである。
以上の議論を踏まえた上で筆者が提案するのは、新しい退行の概念であり、そこには幾つかの条件が満たされなくてはならない。
第一には、これまで何人かの識者が指摘したとおり、退行はあくまでも関係性の中に位置づけられなくてはならないという点である。そしてそこには明白な転移が介在する場合もしない場合もある。
第二に、Balint の良性、悪性の退行は維持されるべきであり、後者に関する彼の「要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険や、嗜癖に類似した状態が発生する危険が絶えず存在する」という理解はそのまま継承することが出来よう。
第二には、退行という概念は、必ずしも患者の生育プロセスの早期に遡るということを意味しないということである。退行により至った状態は、実は患者が幼少時に実際には体験したことがない状態でありうる。上述の悪性の退行はおそらく患者が生育プロセスでは体験しなかった関係が特定の治療関係において生起するものと考えられよう。
この退行が生じた状況を思い浮かべることが難しい臨床家にとっては、甘えの概念が役に立つ。良性の退行においては患者の側も治療者の側も互いに甘えの感情を持ち、それを適切な形で表現できるような関係性と形容することが出来る。
ここですでに論じた、Winnicott
と Balint の争点、すなわち悪性の退行は治療者のせいで起きるのか、それとも患者に内在する傾向なのか、という点に立ち戻りたい。基本的には、悪性の退行は、治療関係があいまって生じることが考えられる。場合によっては治療者がごく常識的な対応をしていても悪性の退行が生じることもある。しかしその場合その悪性の退行を放置する治療者には何らかの逆転移、ないしは知識不足の要素がなくてはならないであろう。結論から言えば、その基本部分は患者の側に依拠するというのが筆者の主張である。悪性の抵抗は患者の持つこの嗜癖傾向あるいはボーダーライン心性と深い関連があろう。「他人が去ることへの死に物狂いの抵抗」というDSMの診断基準が示す通り、依存がそこからの「新しい出発」に結びつかないという例が、見受けられる。今後悪性の退行を嗜癖の観点から、力動学的、および生物学的にとらえなおす必要があろう。