2016年11月19日土曜日

強度のスペクトラム 推敲 ①

精神療法の頻度と強度のスペクトラム


 今日はこの場にお呼びいただいて、誠にありがとうございます。そこでこの機会に、なかなか他の場ではいえないことをお伝えしたいと思います。
 まずはこの週に一度のセッションというテーマから始めますが、私にはどうもこのテーマについては、「週一度ですみませんね。でもそれなりに立派に仕事が出来る様にがんばります」という apologetic (謝罪的)なニュアンスを感じます。「精神分析は本当は週に4度でなくてはならないが、週に一度だってそれなりに意味があるよ、でも週に一度であるという立場をわきまえていますよ、もちろん正式な精神分析とは言えないのは分かっています」というニュアンスです。しかしそれは同時に一種の戒めでもあります。「まさか週に一度さえ守れていないことはないでしょうね。」「週に一度は最低ラインですよ、これ以下はもう精神分析的な療法とは言えませんよ」という一種の超自我的な響きがあります。さらにこれは時間についても言えます。「一回50分、ないしは45分以上のセッションでなければお話になりませんよ。それ以下では意味がありませんよ」というメッセージがそこにはあるようです。
 私は性格上あらゆる決まり事、特に暗黙の決まり事に対して、疑う傾向にあります。というよりそれに暗に従ってしまいそうになる自分に対する自分に耐えられない、というべきでしょうか。無意識レベルでは付和雷同型で、私は元来権力に弱いのでしょう。決まりに反感を覚えるのは、その反動形成だと思います。もちろん何にでも反対するというのではなくて、現実と遊離している決まりごとに対してそうなのです。現実を教えてくれる者にはむしろ感謝の気持ちが湧きます。ですから私はノンフィクションや自然科学に関しては極めて強い親近感を持ちます。心理の世界では脳科学がそれに相当します。まあ、話を元に戻しますと、私は「週一度、50分でなくてはならぬ」にも反発いたします。もちろん週一回、50分できたらどんなにいいだろう、という気持ちもそこには含まれます。週4回の精神分析に関しては、私は実行していますし、それを理想化する部分が確かに私の中でもあります。しかし私が持っている患者さんの多くにとってそれが不可能な以上、この原則は私にとって非常に不都合なものでもあるのです。
 先ず私の立場を表明します。私の立場は精神分析家であり、そして精神科医です。精神分析家である私は、週に4回も週に一度50分も実際に行っています。また土曜日に持っているセッションの多くは週一回50分のプロセスです。しかし精神科医の私のプラクティスの中では、週一度はとても贅沢な構造です。そして私の週二日の精神科外来のように、8時間の間に30人強のペースで患者さんと会うというスケジュールでは、それを維持することには大きな制約があります。そこで私が比較的贅沢に行なえている精神療法は、毎週、ないし二週に一度20分ないし30分です。これはやはり少なくとも平均して10分、15分以内に次の患者さんを呼び入れなくてはならないという立場では、かなり無理なスケジュールです。
 そしてこの、一回に50分取れないという事情は実は精神科医である私だけではありません。私は心理士さんと組んでプラクティスを行っています。そして事実上通院精神療法の本体部分は彼女たちにお願いしているわけですが、とても50分に一人では回っていくことは出来ません。私の患者さんの大部分は定期的な精神療法を必要としている方々です。そのためには一時間に二人は会っていただかないと無理です。私の理想とする精神科医と心理士の共働では、12週間に一度、30分のセッションというのは、事実上のスタンダードです。これは私が知っているもう一つの世界、すなわちトラウマティックストレス学会で出会う精神科医の先生方も言っていることです。「通精では、二週に一度30分が上限だよね」と。二週に一度30分、というスタンダードはこうして事実上あるのですが、だれもそれを精神分析的とは呼んでくれません。

でも私は大まじめで分析的な精神療法をやっているつもりなのです。もちろんそれは週4回、ないし週一回50分と比べて、かなりパワー不足という印象は否めません。たとえて言えば、精神分析という4輪駆動や、週一度というSUVほどには走れない軽自動車という感じでしょうか? でも軽自動車でもそれなりの走りはしていますし、精神分析的な治療という道を、それなりにトコトコと走って行っている気がします。私も「それならば運転できるよ」、と思っているし、患者さんも「それくらいならガソリン代が払えますよ」、といっている。私は軽自動車で多くの患者さんと出会って、とても満足しています。
 どうして私はそのように感じるのでしょうか?それは私はその構造いかんにかかわらず、同じような心の動かし方をし、同じような体験がそこに成立していると考えるからです。このことについてもう少し順序立てて説明いたしましょう。