2016年10月1日土曜日

退行 ④、Toward the theory of “Dissociation with capital D” ⑧


正直に言おう。私はこの「退行」と言う特集原稿の依頼論文、ぜんぜん書ける気がしない。編集者の思い付きだろうか? 何を意図したのだろう? 一つにはこれがあまりにフロイト的、まあ言うならば時代錯誤的だからだ。神経症はリビドーの退行から生じる。一種の先祖がえり?そういうことか? いわゆる「degeneration 変質」の概念にその始まりを見出すことが出来るのだろうか? そうだとするとやはり時代錯誤的だ。あるいはヒューリングス・ジャクソンの解体の概念?
ネットから記事を拾ってくると、
19世紀に隆盛した『古典的局在論』に反対したイギリスの神経学者・心理学者に、J.H.ジャクソン(John Hugh-lings Jackson, 1835-1911がいる。J.H.ジャクソンは機能局在説に対抗する全体説を提唱した初期の神経学者であるが、ジャクソンの神経学は『進化(evolution)と解体(dessolution)の理論』に裏付けられたもので20世紀の精神医学にも大きな影響力を振るったものである。J.H.ジャクソンは、神経系はよく組織化されていて自動的に作動する下位中枢から、組織化されておらず随意的(意識的)に動かすことのできる上位中枢へと進化(evolutionに応じた階層秩序を形成していると考えた。何らかの疾患・病気による解体(dessolutionは進化のプロセスの逆行であり、上位中枢の機能から下位中枢の機能へと退行するとした。
ほらね、ここに出てくる退行。とにかく先人たちはこの進化の問題を重要なものとしてとらえていたのだ。しかし現代的にはどうだろう?退行ということで精神病理を考えたとき、一つには脱抑制の状態が思い浮かぶ。アルコールや安定剤による酩酊や覚醒低下により生じる子供返り。もうひとつはトラウマの再燃、すなわち解離の文脈、ないしはPTSDにおけるフラッシュバック。
それにしてもちょっと退屈になってしまった。小此木先生の項目を読むの。先生には悪いけれど、難しいのだ。あとは適当に流す、というのはどうだろう?

 「フロイトのこの過去への回帰という考え方は,フロイト思想の最も本質的なものの一つであり,反復強迫の概念によってもまた強調されている。その根源的な理由として, 初期には,心的外傷と固着が,後期には,反復強迫,そして死の本能論が提起された。以上の退行理論は,主として自然発生的な精神病理的現象を理解するための説明概念として発展したが,フロイト以後の精神分析は, 「病的な退行」 に対して「健康な退行」と「操作的退行」を区別する。例えばアレキサンダーAlexanderF. (1956)は,病的な退行つまり未解決な外傷的段階 unresolved traumatic conflict への退行と健康な退行つまり葛藤を生ずる以前 pre-conflictual phaseの退行を区別するとともに,退行した結果,葛藤のない状態になれる「葛藤なしの退行 conflictless regressionJと, かえって葛藤的になる「葛藤的退行 conflictual regression」とを区別した。さらにクリス KrisE はフロイトの「抑圧の柔軟性 Lockerung der Verdrangung (1917)の概念を手がかりに自我による自我のための一時的・部分的退行 temporary and partial regression in the service of ego」と進展の概念を提出し,病的な退行は不随意的(無意識的),非可逆的で自我のコントロールを失った out of control of ego退行であるが,健康な人間の酒落,ウイット,遊び,性生活,睡眠,レクリエーション,その他の退行は随意的(前意識的)可逆的な自我のコントロール下 under the control of ego の退行であるという。中でも,芸術的創作過程で働く昇華機能と結びついた「自我による自我のための一時的・部分的退行」はシェーファーSchaferR. (1954)によって創造的退行 creativeregression」と呼ばれる。以上述べた米国の自我心理学の退行理論によるメニンガーMenningerK.の治療的退行論に対して,英国の独立学派の, パリントBalintM.,ウィニコット WinnicottD. W. は,対象関係論の見地による治療的退行論を提示している。パリントは,「基底的欠損 The Basic Fauld (1968)」の中で,ある患者はほとんど全体的な退行状態を示すことなく治癒していくが,ある患者たちは全体的な退行状態に陥る。その中には,退行状態の後再び成長を始める患者群(良性の退行の形態 benign form of regression)と,快楽に対する要求が際限なく起こり,治療的に扱えなくなる患者群(悪性の退行の形態 malignant form regression)があるとして、良性の退行は,外傷体験の時期よりも以前の無邪気な状態 arglos に回帰でき, 一次的な関係 primary relationshipに退行し,新しい出発を始め,新しい発見へと向かうが,悪性の退行は,絶望的なしがみつきに陥り,止まることを知らない要求や欲求を抱き続けて,嗜癖的な状態になり,新しい出発に達することができない。パリントは,一部の患者が深い悪性の退行状態に落ちる理由として「基底的欠損」という前エディプス期,特に口愛期の対象との依存葛藤が,環境との関係で適切に解決されていない基本的な障害があるためであるという。ウィニコッ卜は,退行を環境とりわけ母親に対する依存への退行と見なし,ある患者は治療の途中で「真の自己 true self」が突然出現して,乳児の状態まで退行し,治療者も母親としての役割をとらざるを得ず,分析者としての立場を維持できなくなることがある(パリントのいう悪性の退行)が,患者の中には一時的に退行を示して成長していく,いわゆる発達をもたらす退行状態を示すものがあり,その退行は治療的に有意義で,治療者がそれを受容し,いたずらに解釈せず,患者が成長するまで,患者とともにいて待つことの重要さを唱え,基本的にバリントと同様の意見を説いている。」

ふー!何がフーかといえば、精神分析学事典のPDFをコピペしているので、いたるところに誤記が出てしまい、それを訂正するのが大変なのだ。単なるコピペではないぞ。ということでバリントが出てくるとさすがに面白いな。ここら辺を論文にすることになるだろう。特に私が赤字で示した、嗜癖というところ。これを書きたかった。悪性の退行になると、しがみつきが生じ、それはまさに嗜癖的な振る舞いを生むからである。


Toward the theory of Dissociation with capital D ⑧

Even though Freud himself was distancing himself from the notion, dissociation has been discussed in a very limited way in psychoanalytic parlance. Obviously, dissociation was also discussed outside of psychoanalysis, but rather in a different way. Van der Hart summarizes the difference as follows;
The core of the difference between this psychoanalytic view of dissociation and the non psychoanalytic views that were prevalent in the late 19th and early 20th centuries is the following. Non-psychoanalytic investigators conceptual ized dissociation in terms of two aspects: (1) integrated functioning that temporarily gave way in the face of stressors, and (2) the concomitant development of a separate, split off, psychic organization, personality, or stream of consciousness. This separate organization was made up of the unintegrated perceptual and psychological elements of the traumatic event. This personality organization operated outside of the individual's conscious awareness and could be accessed by various means including hypnosis and automatic writing. It was the division (dissociation) of consciousness (or the personality) that caused such hysterical (dissociative) symptoms as amnesia and contractures. For nonpsychoanalysts, dissociation referred not only to the process of failed integration, but also to a psychical organization or structure (i.e., a dissociative psychic organization). Early Freudians, on the other hand, limited their view of dissociation solely to the first aspect (i.e., the process of failed integration, which, for the analysts, was motivated by the ego in the service of defense).(van der Hart, Paul Dell ed. "Dissociation Book" p.14)
This statement points to the fact that although Freud might have acknowledged that splitting of mind can occur, it is as a result of an “act of will of the patient”, i.e.that two split-off minds are still under the control of the ego. The separated part would never develop into an independent ego with its own will. I would like the reader to bear in mind this point, which is crucial to the point I am going to make in this communication.