2016年9月14日水曜日

書くことと考えること ④ Toward the theory of “Dissociation with capital D” ①

 ④ 分かることとは、もう一度不可知に突き落とされること

私は人間の心の何をわかりたいのだろうか? わかってどうするのか? 実は最後までわかってしまうのは、私にとっては不都合なのだろう。もう考えることがなくなってしまうと、考えることが趣味の私としては困ってしまうのである。しかしうまくしたもので、人の心についてわかるということは、さらにわからないことに出会うということでもある。わかるということは、ひとつの地点に到達したという感覚を生むと同時に、そこの先に広大な不可知を示してもらうことでもある。またそうでなくてはならない。山登りに例えるならば、一つのことをわかることは、一つの峯に立つことであろう。そこからこれまでは見えなかった景色が見えるのはうれしいことだ。ふもとから今の地点までの足跡も振り返ることができる。しかし上を見ると、次の尾根くらいは見えるが、その上はまだ雲に隠れて山頂は見えないことに気が付く。結局はその上にいつまでも峰が続いていることを知って呆然とし、そして同時に少しだけ心地よさを覚える。
 私たちの中にはわからないことの中に放り出されることの快感を感じる部分があるのだろう。松木邦裕先生の講演に出てくる
詩人ジョン・キーツの言葉 negative capability”とは、結局不可知性に伴う快感に支えられていると私は考えている。そして世界が不可知である限り、私は一生考え続けても決してそのテーマはなくならない。ゲームだったら結局最高レベルに行きついてゲームオーバーになるのだろう。しかし考えることにゲームオーバーはない。エンドレスだ。なんと恵まれていることだろう?
私は同様のわからなさを、実は人間一人一人についても感じている。人間はわからない、わかりつくすことなど絶対にできない、というのが私の考えだが、臨床の面白さを支えている極めて重要なファクターは、この個々人の不可知性なのである。
あるとき患者さんが・・・
 (中略)
・・・治療例に限らず、人生においては様々なことが起きる。思わぬ人と出会い、思わぬ人と疎遠になる。思わぬところに落とし穴を発見する。私が常に考えるのは、結局人はそれぞれ違うのだ、ということである。

Toward the theory of Dissociation with capital D ①

Relationship between psychoanalysis and dissociation has a very long and checkered history, which dates back, of course to Freud. Already when he was working on the Studies of Hysteria, he was dissatisfied with Breuer 's notion of hypnoid states, and pivoted toward the theory of repression and libido theory. What he abandoned later was not so-called seduction theory, but his opportunities to become familiar with the experiences of atrocious and traumatic life history.
Freud's tendency of paying relatively less attention to trauma and dissociation did not satisfy his contemporary Ferenczi, and prominent analysts of the day, such as Fairbairn. Balint, and Winnicott opted their ways a little more in favor of trauma and dissociation compared to their great master. These analysts used the term and the notion of "dissociation," but it never was accepted to the mainstream of psychoanalysis and that still holds true on our age. Further down the road, it was H.S.Sullivan who picked the notion, but his theory of dissociation was not given much credit.
As I said, the topic of trauma-dissociation has been discussed separately from the main stream of psychoanalytic theories, but recently new views on dissociation have been discussed in psychoanalysis. Authors such as P. Bromberg and D. Stern have been proposing new way of looking at the theory. However, their theories of so-called weak dissociation cannot capture the essential part of the phenomenon of dissociation. I would propose in this paper the theory of so –called strong dissociation, or dissociation with capitol D.