自己愛と怒り ③
事件は必ず「自己愛の傷つき(自己愛トラウマ)→ 怒り」という形をとる
さて私が自己愛トラウマという概念に行き当たったのは、そもそも怒りの問題を考えていた時である。私は怒りの大部分は自己愛憤怒だという考えに至った。ただしどうやら自己愛憤怒には二種類ある、というのが、のちにフロイト親子の例から分かったことになるのだが。自己愛の傷つきを体験すると、人は時には欝になり、時には怒りを体験する。いつも出す例で非常に恐縮だが、20年以上も前の話だが、クリントン元大統領は、モニカ・ルインスキー嬢のことが表に出て、一方では「誰がそんなことをバラしたんだ!」と猛烈に怒ったそうである。しかし他方では深刻な抑うつ的になった。この様に自己愛の傷つきの典型的な反応としては抑うつか、怒りか、ということになる。しかしこうなると怒りはまさに防衛ということになるのではないか。自我と防衛機制をまとめたアンナ・フロイトが加えたのは、「攻撃者との同一化」と「愛他的な降伏」である。彼女は前者でこのことを言っていたのだろうか?自分の恥の感情を防衛するために怒る?彼女はたとえばピーター・スウェールズの父フロイトに関する暴露的な研究に対して、「とんでもない事だ!」と怒ったわけだ。これは日本語では「逆ギレする」ということに近い。逆ギレ、英語では misplaced anger とか、backfiring とか言うらしい。
トラウマ概念再々考 ②
なんか危機的な状況になってきたな。書く原稿が4つはある。同時に講演が年末までに6つ控えている。しかもそれぞれが違うテーマだ。もう私を救ってくれるのはこのブログしかない。読者にはわからないだろうが。
ということでトラウマ再々考。これは11月20日の講演の準備だ。前回は「次の段階は戦争神経症」とかのんきなことを言っていたが、行き着く先を示そう。それはトラウマの際に生じている、体験の自己表現の阻止ないし停止、ということだ。そしてこれは対人関係のトラウマと考えていいだろう。これが起きるならば、トラウマの要件は整っていることになる。どうしてそれまでは順調に進んでいったと思える親子関係のコミュニケーションが突然トラウマの意味を持つのだろうか? これはよくわからないが、一つは記憶の問題が関係していることは間違いがないだろう。ある種の固定のされ方をした記憶がよみがえり、人の心に害を与える。これしかないのだ。ある親からのひとこと。大抵はそれに対して返すことは出来ない。これは性被害についてもいえる。ある種の誘いかけに応じてしまい、ある心のあり方(嫌悪?恐怖?の前駆体か?)が表現されずに事態が推移してしまう。トラウマの元凶はここにありそうなのだ。