首絞めハイの世界は奥が深く、様々なバリエーションが存在するが、一つの違いは、そこに性的な快感が伴うかどうかと言うことである。そうである場合も、そうでない場合もある。少しWIKI様の力を借りよう。「阿部定事件は、1936年に仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。1936年(昭和11年)5月16日の夕方から定はオルガスムの間、石田の呼吸を止めるために腰紐を使いながらの性交を2時間繰り返した。強く首を絞めたときに石田の顔は歪み、鬱血した。定は石田の首の痛みを和らげようと銀座の資生堂薬局へ行き、何かよい薬はないかと聞いたが、時間が経たないと治らないと言われ、気休めに良く眠れるようにとカルモチンを購入して旅館に戻る。その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。定が居眠りし始めた時に石田は定に話した 「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれ…おまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」と。しかし定は石田が冗談を言っていたのではと疑問に思ったと後に供述している・・・・。ナンだ、単なるコピペじゃないか!!
次にこれを入れよう。以前に書いたものと一字一句同じだ。
コンバットハイ
戦争における「人殺し」の心理学 (デーヴ グロスマン (著), Dave Grossman (原著), 安原 和見 (翻訳)、2004年((ちくま学芸文庫)– 2004年)は優れた情報の宝庫である。
彼はその中でコンバットハイ、すなわち「戦争中毒」という状態を紹介する。銃撃戦の際に、体内に大量のアドレナリン(という表現が、このような文脈では非常に多いが、正しくはドーパミンということになろう)が放出され、いわゆる戦争酔いになるためだ、とある。しかしこれは極めて危険な状態でもあるという。なぜなら次の一発の為なら破れかぶれで何でもするようになるからだという。ターゲットを倒した時に、快感を覚える人は少なくないという。ハンターや弓矢の射手がそのような体験をする。中、長距離で殺人に成功した場合には特にそうであるという。
戦闘中に他人を殺めたことで得られた快感を人はあまりに口にしないという。それをしただけでたちまちとてつもないバッシングに遭うからだ。しかしベトナム戦争でそれを体験し、すぐに戦場に舞い戻りたいと思っていた兵士が存在するという。彼らは、戦闘体験を「究極のでかい獲物のハンティング」と呼ぶそうだ。
私は時々思うのだが、狩猟とはきわめて矛盾に満ちた行為である。射撃をスポーツと割り切り、空中に投げ上げられた標的を打ち落とするのであればまだいい。しかし基本は動物を射止めるのがハンティングである。その名手が反社会性や残虐性を備えているというわけではない。ゴーグルや耳あてを外せば善良なお姉さんやオジさんだったりする。しかしその世界で生計を立てたり、それに熱中したりする人の中には、必ずやこの種の快感を体験する人がいるはずだ。そしてそれは必然的にそうでなければならない。なぜなら狩猟は私たち祖先が、人類の歴史の99.9パーセントにおいてそれを首尾よく行うことにより生きながらえてきたからだ。よき狩猟者であることは適者生存の原則に合致し、私たちのDNAに組み込まれていることになる。しかしそれは同時に殺戮行為であり、獲物に著しい苦痛や恐怖を味あわせるきわめて残虐な行為なのである・・・・・。