2016年7月28日木曜日

推敲 2 ⑤


ところが事態はそれほど単純ではない。そのことを教えてくれるのが、リンデン氏の書「快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか 」(デイヴィッド・J・リンデン (), 岩坂  (翻訳) 河出書房新社 2012)の記述である。動物実験によれば、ある種の成功体験を期待して待っているときは、すでに快感である可能性がある。
この本でリンデンによって紹介されているある興味深い実験がある。サルを訓練させたうえで、緑の信号を見せる。すると猿の報酬系は一瞬活動を増す。これは「やった、砂糖水がもらえる」というサインであり、実際に2秒後に口の中に砂糖水が注がれる。そうしたうえで青信号を導入し、青信号は、砂糖水が2秒後に与えられる確率は50%にすぎないことを、サルにトレーニングにより教え込ませるのだ。
するとどうなるか? 青信号がともった瞬間にやはり報酬系が興奮し、だらだらと持続し続けるのだ。2秒後に砂糖水をもらえてももらえなくても、結果が分かった時点まで興奮は続く。なんという驚くべきことだろう。期待するだけで快感を得られるのである。待っているとき、すでに報酬系が働いている。結果のいかんに関わらず。競馬でいったら、馬券を買ってから疾走馬がゲートに入り、一斉にスタートをし・・・・そのすべてのプロセスが楽しいことになる。たとえ負けたとしても。どういうことだろう? 負けたらもちろん失望する。しかしその分は待っていたときの快感の総和より少ない? そういうことだろう。
それを図示すると以下のようになる(省略)。昨日の図2の通りにはならないわけである。

ニヤミスのファクターとの関連

結局射幸心は、ギャンブルにおいて、渇望が引き出される仕組みであり、ギャンブルを提供する側がそれを煽るものである。どのように人をギャンブルに引き込むか。射幸心をあおる、とは賭け事で「もっともっと・・・」と人の心を狂わせるための手段のことである。そしてその特徴はなんと、負けたことで人の心をあおるという仕組みであり、そもそも負けることが人を興奮させるという奇妙な性質を利用することだったのだ。
もちろん人は負けること自体を目的にするわけではない。負けることはつらく苦しいことだ。しかし「次は勝つかもしれない」、という気持ちがギャンブルの継続を人に強いる。そのひとつの決め手はニヤミスということだ。これについては、本章の冒頭で触れただけで、十分に扱っていなかったが、この「もう少しのところで当たっていた (けれど結局は外れた」という体験が、ギャンブラーの射幸心をあおるのである。
 このニアミスという現象、脳科学的にはそれが報酬系に関与しているということはわかったのだが、それ以上の具体的な事実や仕組みが明らかになったわけではない。そしてもちろんギャンブルを継続させるのは、ニヤミスだけではない。事実宝くじなどで、ニヤミスはあまり出ないはずである。あたりくじとひとつだけ違う番号がたくさん出回る、という話など聞いたことがない。それでも人は宝くじを買い続けるのだ。しかしスマートフォンのゲームなどでは、ニヤミスが射幸心を高めるため、法律の機制下におかれている。
読者の皆さんは、しばらく前に話題になった「コンプガチャ」を御存知だろうか?「コンプリートガチャ」というこの遊戯方法は、オンラインゲームなどで、いくつかのアイテムをそろえることで、レアなアイテムを得る権利を獲得する。これはいわゆる「絵合わせ」とも呼ばれ、射幸心を高めすぎるために規正の対象となる。それが「不当景品類及び不当表示防止法」第3条の「景品類の制限及び禁止」において違法とされている行為であり、コンプガチャは少し難しい条文では、「懸賞による景品類の提供に関する事項の制限」の対象にされる、と書かれている。
 この例は一昔前のポケモンのカードを思い出させる。私の息子が小さい頃だったから20年ほど前だが、随分たくさんのポケモンカードを買ったのを覚えている。一袋に10枚程度のポケモンカードが入ったものを何袋か買うのであるが、何が入っているのかわからない。ほとんどはありふれたカードだが、時々レアなカードが混じる。しかし「激レア」カードは何袋買っても出てこない。これもニヤミス感覚である。
 息子の様子を見ていて面白かったのは、次々とカードを開けるときに、一枚一枚何か念じているようなしぐさを見せることだった。あたかもそれによりカードがハズレから激レアに変わるかのように、である。実はこのことが、なぜニヤミスがそれだけ私たちをアツくするかの一つのヒントを与えているようである。
ニヤミスが射幸心を高める理由については、諸説あるが、私が意義があると感じるのは、次のものである。それはニヤミスにおいては、ギャンブラーはもう少しでうまく行っていた、すなわち「惜しい」体験であり、あとひと頑張りで夢を達成できるものという感覚を生むのである。一等と番号が一つしか違わない宝くじは、紙くずに等しいだけなのに、人はなぜそのような体験をするのだろうか?