報酬系はおそらく細胞死を防いでいる(仮説)あるいは
「自傷行為に至る精神は渇望に似ている」
これまでの私の思考過程を要約すると、自傷行為は、心が限界状況に達した時のパニックボタンである、ということだ。それまでは痛みという不快刺激しか与えなかった自傷行為が、突然自分を救ってくれる行為となる。普段は絶対押すべきでないボタンが、緊急時用のパニックボタンでもあった?報酬系とは駆け込み寺なのだ。そこが発動することで、精神が破滅の危機から救い出される。精神の、というか中枢神経系の、と言うべきであろう。危機状態が長く続くと、神経細胞のアポトーシス(自然死)を起こしかねない時に、報酬系はその興奮を強制的に和らげる。その意味で神経を保護しているのだ。最近の神経保護 neuroprotection は、一つの学会が出来るほどだが、( Global College of Neuroprotection
and Neuroregeneration (GCNN))報酬系は絶対に細胞死を防いでいる、というのが私の仮説である。
私の発想は、ここから渇望の問題に飛ぶ。渇望とは何か、は私が昔から考えていたテーマである。脳の中は一体どうなっているのか。たとえば「苦しい…ヤクが欲しい…」は渇望だろうが、「苦しい…おなかが痛い…」とどこが違うのだろうか?プロレスなどで、寝技をかけられ「て苦しい…、ギブアップ…」とマットをたたいてサインを送るときは、渇望と似ている。だが急性膵炎で喩えようのない苦しみには、「ギブアップ」が存在しない。それでお腹を抱えてうずくまるしかない。それどどう違うのか。
幸いなことに極度の苦しみは、そのうちその人の意識を奪う。人はもうろうとなり、そのうち意識を失うということで極限状態に対処するのである。はるか二十数年前、神さんの出産に立ち会ったが、陣痛が始まった時は余裕だったが、そのうち苦しみだし、会話が出来なくなり、うずくまる様になった。これは苦しそうだな、と横で見ていたら、そのうち朦朧となっていったのである。その時点で無痛分娩に切り替えたのであるが、この体験は神さんのトラウマにはなっていない。あれほどの苦しみだったのに。意識には体験できる苦痛に上限があり、それ以上は免除してもらえるというのは見ていて少し安心したが、そこで起きているのは神さんのように意識が薄れるか、あるいは解離のように、意識を痛覚から切り離すというメカニズムである。すると渇望とはそうなる直前の、ある意味では意識が体験できる苦しみの限界ということになろうか。そしてそれに対する出口が用意されているが、得られないということを同時に意識が知っている状態。時々思うのだが、渇望の時の苦しみは、残っている意識で体の姿勢を保ち、周囲の目を気にして普通にふるまうことに限界を感じている状態とは言えないだろうか。極度の痛みを体験している時、人は最終的にうずくまってしまい、その先には意識消失が待っている。ところが人前でその痛みを隠さなくてはならない事情があるとしたら、その時の苦痛は姿勢や表情の維持ということに起因するだろう。通常は自然に出来ていることを一つ一つ随意的にこなさなければならなくなり、言わばその労作がそのまま苦しみとなる。ちょうどマラソンでゴール手前になると、普段は当たり前のように踏み出している一歩一歩が苦痛となるように。
そう、細胞死の話だった。精神医学の基礎知識として言えるのは、神経細胞は過剰な興奮によりカルシウムチャンネルが開いてたくさんのカルシウムイオンが細胞内に流入して、それが細胞を殺してしまうという、先ほどのアポトーシスという現象が生じるのである。報酬系がすることは、快感を提供するというよりは、過剰な興奮にさらされている神経細胞を強制終了してしまうという意味があるのではないか。まさに英語圏の人々が言うところの reduce the tension が生じるというわけだ。その意味では、渇望≒自傷行為に至る状態、ということが出来るのではないか。