2016年6月26日日曜日

報酬の坂道 ⑥

ちなみに、この報酬勾配がない場合の快楽、というのも考えるといいだろう。以前のブログにも書いたが、報酬の勾配を下ることのない快楽は、言わば静的な快楽だ。静的快は、それに浸っているだけで十分。あー気持ちいい、それだけ。ところが動的快は何かに向かっている。おなかをすかしたワンちゃんが餌をパクついて最後にはお皿をペロペロ舐めておしまい、という一連の動きを考えよう。(なんと穏当な例だろうか?)私は両者の違いは、そこに報酬の勾配が存在するか否か、という考えに行き着いた。ワンちゃんの場合は、「もっと、もっと」に駆られてえさを食べつくす。だから夢中になりその行為に没頭する。報酬勾配におかれた私たちが体験するのは、動的な快である。
様々な報酬勾配の例
 以下に様々な報酬勾配の例を考えてみる。順不同だ。すでにブログでも書いてあるものをアレンジしてある。
 あるダイバーが海底に不思議な貝殻のようなものを発見する。角張っていて、ちょっと六角形にも見える。汚れを落としてみると、なんと金貨であった!まだ確証はないが、きっと何かすごい価値があるに違いない。どうしてこんなところに いきなり金貨が落ちているのか、さっぱりわからないが、それにしてもたまたまこんなものを発見するなんて、なんと幸運なんだろう、すぐに近くにいる仲間のダイバーに伝えよう。ラッキー!ここまでは上述の静的快と言えるだろう。
 ところがふと気がつくとそばにある珊瑚の塊は、何か船のような形をしているようだ。ということは難破船の残骸か?ひょっとしたらこのあたりには、その船に積まれていた金貨がたくさん散らばっている可能性はないか? その目で見ると、そこここに似たような「貝殻」のような形のものが落ちているようだ。ダイバーは、仲間に知らせることをやめて、夢中で探し出す。どこかに金貨を入れていたツボごと発見できないだろうか、と時間の過ぎるのを忘れて・・・・。これは動的。後者で起きているのは、探すという行為が更なる快を生むという、「勾配」の存在なのである。
 報酬勾配が逆向きだったりする場合もある。その場合人は苦痛から逃れることに夢中になる。こんな例を考えよう。あなたが腰の痛みに耐えているとする。慢性的な痛みで、安静にしているとやがて落ち着いていくのがわかっているので、あなたはカウチに静かに横たわっている。これは静的な苦痛。ところが家族の誰かが「マッサージをしてあげるよ。」と言ってあなたの腰に手を当てる。最初は特に何も感じず、少し安心していたが、ある部位に触れられたら急に痛みが増したとする。あなたは悲鳴をあげて「そこはやめて!」といったり、逃げ出したりする可能性がある。急に生まれたマイナスの「報酬勾配」により、痛みは動的になり、人はそれに反応して活動的になるという例だ。
以上の考察から次の様に結論付けることが出来る。私たちが快や不快を静かに体験するとき、それは勾配が存在しないからだ。勾配が存在する場合には、人はそれに没入し、一定の場所に到達するまで、それをやめることがない。
しかし勾配が存在していても、その体験が静的である可能性がある。それは快中枢が飽和状態に達する場合だ。渇きを癒すために水を飲む場合を考えよう。どんなにのどが渇いていても、人は永遠に水を飲み続けるわけではない。コップに34杯も飲んだらもうたくさんという状態になるだろう。最初の一口、二口、あたりの快はきわめて大きいはずだ。しかしそのうち上限に達してしまうと、後はそれ以上にはならず、むしろ苦痛を伴うようになる。おそらく私たちが日常体験するナチュラルハイなどはこの飽和状態に早く行き着くために、環境としてはポジティブ、ネガティブな報酬勾配が提供されていても、そこでの体験は静的な快、不快に早晩行き着くことになるのだ。