2016年6月23日木曜日

報酬の坂道 ③

 Cエレガンスは、尿の特定の「匂い」を求めて泳ぐという。もちろん水の中のことだから、本当の「匂い」ではない。液体に溶け込んでいる極めて微量の化学物質を求めるのだ。そう、Cエレガンスは特定の化学物質を求めて泳いでいくのだ。たった302個の中枢神経の細胞で、どうしてそんな事が出来るのだろうか?1000億個の神経細胞を持った私たちが、喉の渇きのために砂漠の向こうに泉を求めてさ迷い歩くのならよくわかる。しかしたった300個の神経細胞の集まり、脳ともいえないようなとてつもなく単純な神経組織しか供えない生物も、また同じような行動を起こすのである。
 家事に熱中するAさんの話からいきなり特定の尿の匂いを求めるCエレガンスに話が移ったが、私が興味を抱くのは次の一点である。生物はどのようにして動いていくのか。それを駆動する力はなんだろうか?渇きや飢えといった感情であろうか?それともロボットのように自然と匂いや光に向かうのであろうか? もしCエレガンスが求めるのは匂いのもとに到達した時の快感や喜びであるとしたら、そのもとに向かう、という行動はどのようにして成立するのであろうか?直接その匂いのもとに到達したわけでもないのに、どうしてそれを求めて泳ぐということが可能だろうか?
 もちろん読者の中にはこう考える人がいるだろう。「単純な生物が欲望を持つはずはないであろう。」ロボットのように自動的に匂いのもとに泳いでいくのだ。どうして感情など必要なものか?」しかしそれならばこう聞きたい。「では私たちはどうして欲望という厄介なものを持っているのだろう?快や不快や渇望や苦痛など、ややっこしいものをどうして体験しなくてはならないのだろうか?」
おそらくこの疑問には永遠に正解はないのであろうが、少しでもそれに迫っていくのが本ブログの目的である。

基本は報酬勾配だろう

 まず基本の基本からである。動物(人を含めて)を動かす原理。それは「快を求め、不快を回避するという性質」である。よろしい。とりあえずこう述べてみよう。正解だろうか? いや、その答えをここではまだ急がないことにしよう。とりあえずこれを「快楽原則」としておこう。一見これはすごく正しいように思える。快を求め、不快を避ける。当たり前である。その通り。この原則はおおむねにおいては正しそうである。ただしすぐに一つの問題が生じる。「すぐにでも快楽が得られないとしたらどうするのだろうか?」そう。Cエレガンスも匂いのもとにすぐにでもたどりつくわけではない。Aさんだって家事が終わってほっと一息、となるために何時間も働き続ける。報酬が即座に保証されないのに、生命体はどうして動き続けるのか?それも夢中になって。
 私はこれを三日三晩考え続けた。そして一つの結論にたどり着いた。そして動物生態学的にもそれが妥当であることを追認したので、ここに表明したい。それは生物がある種の報酬の勾配におかれた際に、それに惹かれていくということである。どういうことだろうか?
もちろんCエレガンスは水の中を泳ぎながら、匂いのもとに到達して、「やった!」と感じているわけではない。だから彼らは泳ぎ続けるのである。しかしここには一つの仕掛けがある。Cエレガンスが好む匂い物質の濃度勾配がそこに存在するということである。つまりシャーレの一端に患者の尿をたらし、そこからの距離に従って、そのにおいが拡散していく、つまり距離とともに徐々に薄まっていく、という状態に置かれることで、生物は動いていくのだ。Aさんなら、さあ次は掃除だ。これが終わったら洗濯をして… と頭の中の予定表をこなしていく。それが実は楽しいはずなのである。それをここでは報酬勾配、と呼んでおこう。そしてその由来は、Cエレガンスの場合は特定の物質の濃度勾配である。濃度勾配こそ、生物が動いていく際の決め手として注目されているテーマなのだ。