2016年5月6日金曜日

嘘 2 ⑫

昨日の続きである。
いずれの場合も、その人に自分が嘘をついているという明確な自覚があるとしたら、自己欺瞞ではない。単なる嘘つき、ないしは操作的な人間ということになる。ただしこの種の嘘は、先に述べた「弱い嘘」として、程度の差こそあれ万人によってつかれていることは、すでに検討した通りである。問題はその嘘を彼らがあいまいな形でしか自覚していないことである。彼らは常に口実を用意している。その口実を心の中で唱えることで、その嘘についてあまり考えないようにしている。
もしこの状態が、「ある事実や可能性が意識の舞台の袖にあっても、見ないふりをする」という風に表現できるのなら、おそらくこれは精神分析でいうところの「抑制」が働いていることを意味する。そしてここには一種の罪悪感や後ろめたさが伴うはずだ。見ようとしていないものが一瞬視線に入った時に、それが生じることになる。するとこれを代償するように、相手に、弱い嘘をついた相手に接近し、機嫌を取ることになるだろう。①ならこちらから誘いかける。②なら子供に対してことさら愛情を注いでいるそぶりを見せる。田房永子さんの漫画(「母がしんどい」)ではまさにそうだった。③ならBに対して、飲みに連れて行く、「やはり君は頼れる部下だよ」などとお世辞を言う。④だったら母親は息子に、わざとらしく見合いの話を持ってくるかもしれない。
 どれも特徴的な気がする。自己欺瞞の人の典型は、このような代償行為を臆面もなく行うことだ。それは彼らがある意味では自分に嘘をついていることを心のどこかで認めていることの証拠になる(だから「自己欺瞞」と呼ばれるのだ。英語では self-deception)。彼らの代償行為は、それがバレそうになった時に一生懸命自分を、そして相手をだます手段である。こうすることで彼らは他者や自分との関係を維持することになるだろう。さもなければ誰も彼らに近付かなくなってしまうからだ。そう、自己欺瞞人間の周りでは、たいてい彼らに混乱させられ、辟易している人がいるはずなのだ。そのことくらいは自己欺瞞者にもわかっている。
でも、とここからは新たな考えがうまれた。(まだまだ下書き段階である。)この種の自己欺瞞は、私たちが例えば運動をしたり、ダイエットをしたり、と決心した人がくじけるとき、三日坊主の時と、どう違うのだろう?3日間続けたジョギングを4日目にサボる時、私たちは自分にどのような言い訳をするか。「自分はこのままメタボでいたら、多くのもの(健康、人からの評価、自尊心)を失ってしまう」という思考は、おそらくジョギングを始めた頃よりはインパクトを失っているのだろう。テレビで健康番組を見た当座はインパクトを受けても、次々と別の面白く興味深い番組を見ていることだし。あるいはより安楽を求める心が強くなり、「運動すべし!」という思考は容易に舞台裏に押しやられる存在になって行く。もうそのことは考えなくなるのである。
 このような形での「忘却」は、忘れよう、忘れようと意図的な努力を行うのとは違い、きわめて容易で、受け身的であることがわかる。前者の忘却は力で意識の外に押しやる運動。後者はむしろ力を抜くことで勝手に生じる。前者はほっておけば舞台にせり出してくる思考を無理やり舞台裏に押し込む作業。後者はほっておけば舞台裏に引っ込んでいく思考をそのままにしておくこと。フロイトの用語を使えば、前者は逆備給を持つ思考への働きかけであり、後者はそれを持たずに自然に前意識、または無意識に沈んで行き、そこにとどまろうとする思考が対象だ。後者については、それが意識という舞台に登場することで苦痛を呼び起こすという、きわめて快楽主義的な原則が働く。「C.エレガンス的」な心だ。そしてそれが舞台裏に押しやられることで罪悪感や恥辱などを伴う際にのみ、逆備給を獲得する。前者は水中に沈めた風船のように浮かび上がろうとするもの。後者は(最初に入っていたはずの)空気が抜けてしまい、風船そのものの重さもあり、浮かび上がってくる力を失った、しぼんだ風船、ともなぞられることができるだろう。
うーん、少しずつ分かってきたぞ。思考にはこの二種類があるのだ。C.エレガンス的な原則に従うのは、逆備給を受けていない、自然と忘れ去られる運命にある思考。これは意識から去ることが自然なのだ。もう一度まとめてみるぞ。部下に汚れ役を押し付ける上司。③の例だ。本当は自分がすべきものを、部下を鍛えるという口実に部下に押し付ける。恐らく彼はそのような卑怯な手を、自分より立場の強い相手には用いないはずだ。そんな例はいくらでも見たことがある。ということはそのような行為は意図的なのだ。「この人にはこの手が使えそうだ」と言って用いるのだろう。そうでないと誰からも相手にされなくなってしまう。相手によって態度を変える人間。自己欺瞞的な人間の典型だ。ということは「この部下をだましている」という自覚はある。しかしその意識は、都合よく意識から消えて行ってくれる。罪悪感とともに彼自身を苛むことはない。ほっておけば忘却される思考なのだ。