2016年3月22日火曜日

報酬系⑨、SP論文追加③ 


精神科医は不埒(ふらち)な夢を見る

久しぶりに夢を見た。私はがんで余命いくばくもないことを宣告されている。自分でも体力が落ちてきているのがわかる。しかし私は特別死を怖くは思っていない。それに死ぬ前のある楽しみがあるのだ。思えばずいぶんしゃかりきになって走ってきたような人生だった。先のことばかり考えていたような気がする。少しでも前に行けないか、そればかりを考えていた。でも最後はゆっくりとしていいのではないか。努力の結果としてしか快楽を認めないという自分が変わってもいいのではないか?
 ふと目の前の予定表を見る。この先何も予定は書きこまれていない。カレンダーはまっさらだ。ただ一つだけ、一か月後の日付に「X」と書かれている。そうだ、この日が私のXデイだと主治医に宣告されていたのだ。でもその日まで待つ必要もないだろう。この時折襲ってくる痛みに耐え続けることを思えば、もうこの世に未練はない。それに私にはまだ「最後の楽しみ」が残されている。
私は傍らの未開封の封筒を開ける。何の変哲もない、少し厚みのある茶封筒。他人から見れば、取るに足らない書類が入っていて、開ける必要すらなくうち置かれているようにしか見えない封筒。しかしそれは特別な印「x」が薄っすらと、でもはっきりとつけられているのだ。中からは小型のリモコンのようなものが出てくる。それと一緒に出てくる注意書き。そこには脳の解剖学的な位置を示し、そこに数か所に打たれた点がある。それともう一つの重要な但し書き。「一度ボタンを押すと、もうこのリモコンを手放せなくなるので、くれぐれも注意してください。」
 私は少しためらったあとに私はその「on」のボタンを押す。それは実は不思議なボタンであり、私の脳の数か所がそれにより刺激を受ける仕組みになっている。ボタンが押された数秒後に私は思うのだ。
「これだ!」
私が長らく求めていたもの。でも決して体験できなかったもの。一種の悟りにも似た境地。最後の到達点。お花畑にも似た、華やかで楽しげな、しかしそれをおそらく数倍は増幅したような境地・・・・・。

ここで私は目が覚めたのである。汗をビッショリかいている。なんと不謹慎な、不埒な夢を見たのだろう。精神科的な知識がなければ見ないような夢。私はなんといい加減でフシダラな人間なのだ・・・・。

追加③
However, the contact of SP can also be considered as a component of phase 2 (Confronting, Working Through, and Integrating Traumatic Memories) (ISSTD, 2011) as this has a strong nuance of abreaction for the SP as well as the host personality herself. This also has a meaning of working through of the trauma memory as the SP’s verbal expressions might be a realization of some traumatic memories.