2016年3月1日火曜日

So called SP (31) 、自己愛についての質問に答える(一回だけ)



昨日とても面白い体験をしたので、ここに公開したい。東京駅で新幹線に乗り込むと、通路を挟んだ隣に座っている中年女性の様子がおかしい。何か私に対してリアクションを起こしている。ニコニコと笑いかけ、何か手で合図をしているのだ。私はふと私を通り越した横のの席の人に話しかけているのかと思ったが、そこは空席である。私は、「え、私に何か御用ですか?」とジェスチャーをしたが、本人は何かニコニコと私に笑いかけるだけだ。私はその女性が人違いをしているのかとも思い、マスクをはずして、私がまったくの他人だということを示したが、それでも笑いかけているのである。いったい何が起きていたのだろうか?その女性は患者さんなのだろうか?・・・・・・・・
答え。彼女は私を通り越して、駅のホームにいた見送りの知人に向かって何かコミュニケーションをしていたのである。窓は決して大きくないし、私の角度からはその見送りの人が見えにくかったのだ。隣の女性はそのホームの人に気をとられていたので、私の必死の反応も目に入らなかったというわけである。一番恥ずかしかったのは、私だったわけである。

So Called SP (31)

Quite typically,................................................................................ .................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................... on his feet.




自己愛についてのご質問

ある方から次のようなご質問を受けた。    

  恥と罪悪感は同レベルで対になるものでしょうか?

現象としては、恥は、自分が相対的に他人より弱い、みすぼらしいという自覚により生じます。
罪は、自分が相対的に他人より悪い、非道徳的であるという自覚によります。人の自己評価にはこの強弱、善悪の二軸があります。当然強いけれど悪い(ヤクザ)、強くてよい(スーパーマン)、弱くて正しい(清貧な人)などの組み合わせがあります。どちらが一次的かは重要ではなく、自分が社会において人より悪い存在、弱い存在ということを認定する時期がどちらが早いかで、よりどちらが早くから備わるか、ということが決まるでしょうが、圧倒的に後者の方が早いでしょうね。例の図示は、あくまでも現象としていえることです。どちらがより一次的かということとは関係がありません。

②日本人の感じる「恥」と欧米人の感じる「恥」の質が異なるということは考えられますか?

アメリカの思春期の子供たちを見ると、人と違う、ということはものすごく恥ずかしいことですが、何しろ民族がごっちゃになっているので、元から違っていて画一的になりにくいということはあるでしょう。中学になっても制服はなく、皆ジーンズ姿に思い思いのものを着てきますし。でもたとえば卒業時のプロムなどで、連れてくるパートナーがいないことは、かなり恥ずかしいこととして、無理してきょうだいを連れてきて体裁を保つなどのことをします。彼らは自分が違いかに(ほかの人と同じように)自分なりの主張をもって表現できるかについて、互いに競い合い、そうでない自分を恥じるというところがあります。

③日本の学校現場における「恥の回避」とアメリカの学校における「成功の希求」は,それぞれの文化の自己愛の表出の特徴を表していると言ってよいでしょうか?

そうでしょうね。学校に通っている間はそうでしょう。でも町工場などで集団の力から解放された人たちが、新たな工夫や新製品を生み出す力はどうでしょう? ノーベル賞を得るのに、国家が膨大なお金をつぎ込むことは、必ずしも必要ではありません。小さな工夫や、人の思いつかない発想です。繰り返しますが、日本の学校は「人と違わない」ことに力を注ぎ、アメリカでは「自分の主張を持つ」ことに力を注ぎ、両方ともそれに見合わないと恥を感じるのです。

④日本の学校現場において「恥の回避」以外の動因(特に罪悪感)の可能性をどうお考えになりますか?

欧米人が罪悪感を日本人より強く感じるなんて、まったく信じられませんよ。財布が落ちているのを見たら、お金を抜き取るのは常識です。財布が届けられるのは。このことを考えても日本人の倫理観や罪の意識の高さは歴然ですよ。教育現場でできることは罪の意識を植え付ける(そのこと自体が土台無理です)よりも、どれだけ馬鹿げた発想をしたかで競争をすると言った試みです。たとえばカンファで、だれも考えないようなコメントをした人は、いくら突拍子がなくても評価するとか。●●大では絶対にありえませんね。