さて臨死体験はどうだろう?私の不埒な夢も、もとはと言えば臨死体験において生じる不思議な現象が発想にある。死を目前にした人が体験する至福のとき。時間の流れが変わり、過去の思いが走馬灯のようによみがえるパノラマ体験。死を直前に控えた人間が持つこの特殊な体験については、従来様々に論じられている。もちろんそれを後になって報告する人が「死んで」はいない以上、それらの報告は虚偽や妄想かもしれない。しかしそれにしてはそれはあまりにしばしば、それも極めて過去にさかのぼって報告されている。死を安らかに迎えたいという私たちの願望が創り出した妄想とまでもいえないようだ。
しかし私はこの臨死体験についてもわがままな要求がある。人の死を見ていると、安らかではない死もあるではないか。苦痛の末に死んだことがわかるような姿が、たとえばポンペイの火山灰に埋もれた人々の姿には見られる。死を目前にした人の脳が一生懸命エンドルフィンを出す暇がなかったらどうするのか!もちろんヴェスビオ山噴火による火砕流から逃げ惑った人が焼かれる最後の最後の0.001秒は、それでもエンドルフィンが分泌されて幸せだったかもしれない。でも遅すぎはしないか? やはり死を待つ側としては、確実に心地よい死を迎えたいではないか。そこで不埒な・・・・となる。
臨死体験による死が、身体への侵襲により生じるものでは必ずしもないことは確かだ。私がいつも思い出すのは、「フランドルの冬」による加賀乙彦氏の記述だ(←うろ覚えで出典が間違っているかもしれない。)確か車が崖から落下する途中のほんの2,3秒の間に生じたパノラマ体験を書いてあったが、もちろん自分はこれから死んでいく、という認知が引き起こしたものだったはずだ。それでもエンドルフィンは出てくれるのだ。