ここでよくある疑問に答えよう。というか、私がよくわからなかった点だ。炎天下を歩き続けて渇きに苦しんだ人が、自販機で手に入れた水を夢中で飲み干すという動的な行為そのものに、報酬勾配は介在しているのか? 私の仮説ではそうだったが、それはどのように説明されるのか? 一口飲むごとに水がおいしくなるような現象などあるのだろうか?
あるいはこんな例はどうか? ケーキ好きの私がおいしそうなモンブランを目の前にする。私は夢中で食べるであろうし、途中で止めることなどできない。これも動的だが、報酬勾配はこの場合はどのように説明されるのだろう?
結論としては、実はここにも仮想的な報酬勾配があるのだ。目の前の冷水のペットボトルやチョコレートケーキ(変更!!)一個を前にして、私は味わいつくす報酬の全量を先回りして計算する。たとえば10単位としよう。すると水を飲み干す、ケーキを平らげる、という行為はそれに向かって進む、つまりは報酬の全量に向かって近づいていくということだ。一口ごとに0.5単位、という風に。それを報酬勾配と見なしていいということである。
その証明としてこんな例を考える。目の前のペットボトルやケーキとして半量を考える。ペットボトルに半分の水、フォレノワール(また変えた!)の半分の量である。最初からそれが与えられなかったら、飲み干したあとに、平らげたあとに、私は満足して余韻を味わうという静的なモードに入るはずである。ああ、おいしかったなあ、ジーン、というわけだ。もちろんもう少し飲みたい、食べたいという気持ちはあるが、そもそもその可能性は考えていない。目の前からなくなっているし、「お代わり」はない、と聞かされているからだ。その状態と、最初の全量の水やケーキを半分だけ消費した最中に、突然だれかに取り上げられてしまった場合を比べよう。こちらはお目当ての河口に向かって泳いでいるシラスや、川上に向かって遡行しているメス鮭がそれを突然阻止されたのと同じ状態になるはずである。
結論としては、実はここにも仮想的な報酬勾配があるのだ。目の前の冷水のペットボトルやチョコレートケーキ(変更!!)一個を前にして、私は味わいつくす報酬の全量を先回りして計算する。たとえば10単位としよう。すると水を飲み干す、ケーキを平らげる、という行為はそれに向かって進む、つまりは報酬の全量に向かって近づいていくということだ。一口ごとに0.5単位、という風に。それを報酬勾配と見なしていいということである。
その証明としてこんな例を考える。目の前のペットボトルやケーキとして半量を考える。ペットボトルに半分の水、フォレノワール(また変えた!)の半分の量である。最初からそれが与えられなかったら、飲み干したあとに、平らげたあとに、私は満足して余韻を味わうという静的なモードに入るはずである。ああ、おいしかったなあ、ジーン、というわけだ。もちろんもう少し飲みたい、食べたいという気持ちはあるが、そもそもその可能性は考えていない。目の前からなくなっているし、「お代わり」はない、と聞かされているからだ。その状態と、最初の全量の水やケーキを半分だけ消費した最中に、突然だれかに取り上げられてしまった場合を比べよう。こちらはお目当ての河口に向かって泳いでいるシラスや、川上に向かって遡行しているメス鮭がそれを突然阻止されたのと同じ状態になるはずである。
しかしここでもうひとつ重要な要素についても考える必要がある気がした。一種のモメンタム、慣性の問題だ。私が仮にモンブランを食べ始めるにしても、もしそれを一時間かけて一口づつ食べることを選んだなら、私は一見非常に静的な報酬を得ていることにならないか。一日かけたりして。その場合は私の動きは止まって見えるはずである。酒をちびちびやるのもそうだ。ところが私は実際にはそれが出来ないし、渇きを癒す人もそうはしないだろう。なぜだろうか?
つまりこういうことだ。水やケーキの場合、報酬系はその活動が継続することで満足感を保つことが出来る。手を止めると報酬は止まってしまうのだ。だから可能な限り食べ続ける。その際のスピードは、その報酬がおそらく最大値に達するように調節されているはずだ。ここでの最大値とはより正確に言えば、それが伴う苦痛や労作を差し引いた値、ということである。水をあまり勢いよく飲むとムセてしまう。口に口内炎が出来ていたら、ケーキを食べるスピードも落ちるだろう。それと同じである。
ということはケーキひとつを食べてしまう、ということは相当苦痛に違いない。それまで刺激されていた報酬系は突然止められるからだ。そこで働くのが、報酬の全量を想定する、自分が味わいつくすことの出来る報酬の全量を想像し、そこで自分の心(脳?)にストップをかける心の働きだ。おそらく私たちはこれがあることで、あきらめることが出来、社会生活を営むことが出来るし、逆にこれに歯止めが効かなくなるのが、中毒、嗜癖、というわけだろう。つまりこういうことだ。大好きなケーキを食べるとき、どこで快が終わるかを、私たちは十分にインプットしておく。覚悟を決めておくのだ。そしてその全量に向かって報酬を得るような活動(たとえば食べること)を始める。それを蕩尽したらもう終わり、と心に言い聞かせる。本来合目的的行為、とはそういうものだろう。ケーキを食べ終わるというのが目的。そのための快の坂道を登っていくという活動が動的な快を提供するということになる。