2016年2月2日火曜日

報酬系と心(0)

全くの気まぐれで始めたシリーズである。単なる落書きのようなもの。
実は最近、フロイトの「抑圧」の概念、これまで軽視していたのだが、実は大変な意味を持っていたのではないかと思うようになってきている。私はある時、こんなことを考えていた。人はどうして事実を直視せず、明らかに誤りと思える事柄に固執するのだろうか?私たちの生活はいかに多くの自己欺瞞に満ち溢れているのだろうか?そこには明らかに情動が関係している。するとごく単純な発想が湧いてくる。ある事実を否認するのは、それを考えることがつらいからではないか?
ある政治家が賄賂を受け取ったかどうかを尋ねられる。「私はこれまでに不正を一切していない。」という。「いや、受け取ったか受け取らないかを聞いているのです」とマスコミが畳み掛ける。「記憶があいまいだ。秘書に確認する…。」 「きのうA誌の記者には、相手との接触を肯定したそうですが?」「だから、相手と会食したことはある。それだけだ」
何とも往生際が悪いが、その政治家はうそをつこうとしているのか? これは否認か?抑圧か、はたまた解離か?自己欺瞞か?それは分からない。しかしひとつ確実に言えることがある。それはその政治家にとっては、賄賂を受け取ったという記憶を心に置くことはとてもつらいのだ。できるなら触れたくない。彼は会見を回避する。できるならどこかに逃げ出したい。自分はふと悪い夢を見ているのではないかと思う。ある時は「あれはなかったんだ」という気持ちになる。そんな瞬間も確実にあるのだ。しかしまたその記憶は突然戻ってきて、心に痛みを与えるのだ。 抑圧とは、そのような心の在り方一般をさすと考えていい。もちろんフロイトが最初に考えたこととはかなり違っていたのだが。