2016年1月13日水曜日

私にとっての対象関係論(3)


これもしばらく止まっていたな。

以下に示すカンバーグの言葉をご覧ください。彼は1970年、80年代に境界パーソナリティ障害の病因論として、クライン派の考えに沿って生まれつきの攻撃性を主張していたことは知られます。小此木世代に育った私たちは、カンバーグが英国の対象関係論を集大成し、それをBPDの治療に応用したと考えられていました。彼こそがORの申し子だったのです。ところがその後1995年に次のように述べてかつて提唱した理論の一部修正を行っています。
「…同時に私は生まれつきの攻撃性についても曖昧ではなくなってきている。問題は生まれつきの、強烈な攻撃的な情動状態へのなり易さであり、それを複雑にしているのが、攻撃的で回避をさそう情動や組織化された攻撃性を引き起こすようなトラウマ的な体験なのだ。私はよりトラウマに注意を向けるようになったが、それは身体的虐待や性的虐待や、身体的虐待を目撃することが重症のパーソナリティ障害の発達にとって有する重要性についての最近の発見の影響を受けているからだ。つまり私の中では考え方のシフトが起きたのだ…)」。(Kernberg, O.,1995

人によっていろいろな考え方はあると思いますが、関係論的旋回の本質にあるのは、このトラウマ重視の視点ではないかと思います。ここでカンバーグが表現している通りです。おそらく精神医学や心理学の世界で何がもっとも大きな事件であったかといえば、トラウマ理論の出現であったということが出来ます。1980年のDSM-IIIPTSDが登場し、社会はそれから20年足らずのうちにトラウマに起因する様々な病理が扱われるようになりました。1980年代には、国際トラウマティックストレス学会と国際トラウマ解離学会が出来、虐待や性被害、DVといった問題がわが国でも広く論じられるようになりました。国際トラウマティックストレス学会の日本支部も2001年に発足しています。この動きが精神分析の流れにも少なからず影響を与えているということが出来るでしょう。
 さて精神分析におけるトラウマ理論は、実はそれ自身が結構逆風にさらされています。別のブログにこんなことを書きました。
「トラウマ:誘惑的な仮説」という意味シンな表題の論文もある。(Reisner, S. (2003). Trauma: The Seductive Hypothesis. J. Amer. Psychoanal. Assn., 51:381-414.
トラウマは自己愛の問題と深く結びついている、と。「米国では、トラウマは、崇高な位置を得ている」「サバイバーは権威を与えられ、尊敬のまなざしで見られる」「トラウマの体験は、芸術家や創造者がなかなか得られないものを得る事が出来ている」「そしてトラウマストーリーにおいては、被害者は無知で純真であることが期待されている」「トラウマの被害者は責任を逃れる事が出来る」「犠牲者は一般大衆に代わって苦しみを背負っている」「治療者は傾聴する特権を得ている。」そしてこのような考えの典型として、Davies, Frawley の次のような文章を引用する。「誘惑説は、患者の子供時代の現実の人々の証拠に基づくものである。それは自分の自己愛的な満足を得るために子供を利用する大人を罰するものであった。エディプス葛藤は、それに対して、子供時代の性的虐待は、子供自身の性的な願望によるファンタジーによるものだということを強調するのである。」DAVIES, J.M., & FRAWLEY, M.G. (1994). Treating the Adult Survivor of Childhood Sexual Abuse: A Psychoanalytic Perspective New York: Basic Books これはいただけない、というものだ。

ではどうして私が結局こちらの方を持つかというと、やはりフロイトジャネ論争は、どちらかといえば、ジャネに少し軍配が傾いているからということになります。その部分を説明しなくてはなりません。