2016年1月1日金曜日

私にとっての対象関係論(2)

元日だからといって、相も変わらず・・・


ORからRに向かうこと(「O」が取れること)が「関係論的旋回」であった

さて私が次に述べたいのは、対象関係論(OR)はやがて関係論(R)になっていったというプロセスです。ここで何が起きたのでしょうか?この問題は重要です。なぜなら皆さんがこれまで学んできたのは、対象関係論ですし、この私たちのグループは対象関係論を扱うということで一種の大同団結をしているのです。ただしその中にあって、各論者はそれぞれ別の色合いを持っています。たとえば妙木先生は御自分を「自我心理学」に属すると位置づけていらっしゃる。その場合、対象関係論の「対象」という字がどちらかといえば「自我」という文字に置き換わっている状態です。私の立場から言えば、対象関係論の「対象」が少し薄くなり、関係論になりつつあるという状態です。(「対象関係論」-「対象」=「関係論」)そう、私の中では全世紀の終わりごろから起きている、この対象関係論の対象が少しずつ薄くなっているということは重要な意味を持つのです。これは果たしてどういうことでしょうか?
私の流れは御存知のとおり、対人関係学派から関係精神分析にいたるものです。いつもそちらの流れから対象関係論を俯瞰しているというところがあります。そうするとたとえば、ウィニコットはすでに関係論的な人であった、サリバンもその傾向があった、などの言い方をすることになります。いわば里程標としての対象関係論なのです。対象関係論は何かが変わっていった。それは何か?それをひとことで言うならば、トラウマという視点の導入なのです。ただこの話に至る前に導入が必要です。
個人的な話になれば、私にとっての対象関係論は、カンバーグでした。この言葉も小此木先生のカンバーグ理論の紹介の中で出てきたのを覚えていました。私が分析の勉強を始めた1980年代の前半は、米国で対象関係論がブームになりつつありましたが、その火付け役はカンバーグだったのです。当時は米国の、特にメニンガーへの留学を果たした先生方がその成果を持ち帰るというのが主流で、その重要な役目を果たられたのが、岩崎哲也先生でした。彼はメニンガーに69年から72年まで留学したのですが、それはカンバーグがメニンガーの病院長であり、クライン派の考えをそれこそグループ運営にまで広めているところでした。何しろ岩崎先生のスーパーバイザーは、かのラモン・ガンザレイン先生だったということです。ガンザレイン先生はクライン派の立場からグループ療法を進めた方でした。(ちなみにガンザレイン先生のスーパーバイザーがビオンだったという事情がありました。)
彼の訳した「メラニークライン入門」は、大きな話題を呼んでいました。カンバーグは、それまで英国に留まっていたクライン理論を、アメリカの精神分析界に、裏口から導入した人、と言われています。そしてクライン派による対象関係理論がどうしてここまで米国で話題になったかは、それがボーダーラインの議論と密接に関係していたということが大きいと思います。その頃は英国留学を経てかえっていらした先生は多くなく、もっぱらメニンガーでトレーニングを受けた先生方がリーダーシップをとっていらっしゃいましたが、岩崎哲也先生、狩野力八郎先生などはその先駆けといえます。
さてそのカンバーグの提唱したBPD理論ですが、その基本は結局は生得的な羨望が原因ということでした。これは治療的なニヒリズムを生むきっかけにもなったようです。基本的には入院治療をしたうえでの分析療法を彼は提唱したのですが、生得的な攻撃性が問題となるとしたら、その分析にどれだけの効果が期待されるのであろう、と疑問を抱きつつ米国に向かったことを覚えています。