フロイトの人生を思う時、「夢判断」(Freud,
1900)において彼自身が語っている有名なシーンがある。フロイトの父ヤコブが、ユダヤ人であるというだけで人から罵倒されて帽子をどぶに落とされた時に、ヤコブはそれに立ち向かわずに、落とされた帽子を黙って拾って立ち去ったという話である。それを聞いた時の幼いフロイトの反応は、無力な父親に対する情けなさや恥の感覚であったに違いない。フロイトは後の人生ではそれを強気ではね返すことを旨としたようである。彼は人間の心に常にポジティブな欲動や攻撃性を想定することで、父親や自分の中に潜む無力感や弱さを合理化していたのではないだろうか? それが「恥は本来は恥ずべきことではない事柄に対する防衛として生まれた」という先述のフロイトの議論につながるのである。
フロイトは「過敏型」の病理を持っていたのだろうか?
最後に、私が先に示した「フロイトは過敏型の自己愛性格であったか否か」、というテーマについて考えたい。これまでに私が紹介した「過敏型」の自己愛人格障害とは、自己イメージが「理想自己」と「恥ずべき自己」に分極し、両者の葛藤に悩むものの、基本的には「恥ずべき自己」に居場所を見いだすような性格である。これはギャバードの「過敏型自己愛性格
」 のモデルに由来することは繰り返してきたが、これはまたクレッチマーの「敏感性格」(Kretchmer、1950)とその基本においては通じている。
私自身の見解としては、たとえフロイトは典型的な過敏型の性格傾向からは外れるとしても、その兆候を多く持っていたと考える。少なくとも彼の中の「理想自己」と「恥ずべき自己」との分極はかなり明らかなように思える。ボスという分析家が「フロイトの人格が精神分析理論と技法に及ぼした影響」という論文( Voth, H. 1972)で述べているが、フロイトは「受け身的で、遠慮がち unobtrusive で、対人関係に小心 timid であり、自分自身や他人の攻撃性に煩わされた」(p.49)という側面を持っていた。このような性格はしかし、将来は閣僚や傑出した政治家になることを夢見たという、フロイトの野心的で自己愛的な側面との見事な対照をなしている。いわばこの両極端の側面は、「理想自己」と「恥ずべき自己」イメージの間の分極およびその間の葛藤を特徴とする過敏型に比較的よく当てはまるといえる。このように見れば、フロイトの展開した分析理論や技法も、この両「自己」の間の葛藤の産物、ないしは症状としての意味さえ読み取れることになろう。彼が生涯唱えたテーマである、男性のエディプス葛藤の克服と女性的受け身性の克服、ないし女性のペニス願望の克服等も、彼自身の持っていた女性的受け身的性格を克服したいという願望の反映と見ることもできる。これに関して先のボスは言う。「フロイトが生涯固執した両性具有性は、彼自身の防衛的な必要に見合ったものであり、また同時に彼自身の母親との症状的な同一化のあらわれであったと思える。」(同論文 P.53)。
まとめ
以上恥という文脈からフロイトの理論やその人柄について考えた。恥という心理現象についてフロイトが多く論じなかったことは事実である。それを説明する一つの仮説として、フロイトが恥を感じつつ、それを防衛しようとしていた可能性を指摘した。もちろんフロイトの主観世界において実際に何が起きていたのかは彼以外には誰にもわからない。しかし私はフロイトは対人関係に非常に敏感な人であったと考える。そしてこの敏感さと恥の感じやすさとはほぼ同義であると私は理解している。その意味で2での私の考察は、1.のフロイトと自己愛についての考察と結局は同じ方向に向っている事に気づかれたと思う。それはフロイトは野心的で、強気の姿勢を保つ一方では、弱い自分、恥ずべき不甲斐ない自分、見捨てられるのではないかという不安におびえる自分を受入れるのに抵抗があったのではないか、という見方である。フロイトが弟子との間で見せた態度も、恥についての理論的な価値を刑したのも、その表れである可能性がある。そしてその源流にあるのは幼い頃の母親との体験であろう。フロイトの母はフロイトに過度の愛情や注意を向けつつ、しかしフロイトが持った様々な感情を本当の意味で汲む事が出来なかった可能性がある。そしてフロイトはその後の人生で注目や愛情を周囲の人から望み続けると同時に、恥の感情やそれへの恐れを抑圧し続けたのかもしれない。フロイトの理論全体は、実はその恥や自己愛の傷つきを体験する事への防衛というニュアンスを含んでいたのである。