フロイトのおこなった恥の力動的理解
以上に述べたフロイトの恥
Scham の議論は力動論的には次のように捉えられよう。フロイトが恥を倫理観や「うんざり感」などと同列に論じた際、それらは内的な欲動に対抗するもの、その充足を阻止する力として理解された。したがって恥は二次的な感情であり、外的ないし表面的な感情ということになる。私がこう述べる意味をもう少し説明したい。
フロイトのリビドー論を簡単に整理してみる。まず幼児期に性感帯(口、肛門、性器)から発する性的なエネルギーがある。それはその器官に結びついた欲求の充足を求める。この性的エネルギーをプライマリーなものとして捉えるところにフロイト理論の原点がある。この体の内側から沸き起こってくる、生物学的に運命づけられている性的エネルギーを認めることが、欲動論の根拠となっているのである。ところがこの性的欲動がいつも満たされ、エネルギーが発散されるというわけにいかない。それはある種の阻止を受けることになるのだが、この阻止は内的欲動とはまったく逆の方向から来ることになる。つまりそれは外的な影響、つまり両親を含めた他者からの禁止であったり、社会の及ぼす禁制だったりするのである。内的欲動がその充足をあきらめる結果として生じるのが抑圧であり、昇華であり、無意識的な罪悪感や神経症症状はその結果として生じてくる。
この図式における恥の役割は明らかである。それは一次的な内的欲動の充足を二次的に阻止する外界(社会)からの力である。そしてこの図式が立てられた時点で、すでに恥は内的欲動やそれが形を変えた罪悪感という主役に対して、脇役に甘んじる運命にあったのだ。いうならば、フロイトにおける恥は病理を形成するための要因の一つにはなっても、その病理自身にはなれなかったのである。しかもそれは心の痛みをともなった感情というよりは、外的な力として、あるいは物理的な障害物のようにしか扱われなかった。先述の「防衛の神経精神病に関するさらなる言及」(1986)でフロイトが「恥は本来は恥ずべきことではない事柄に対する防衛として生まれた」(原文p.178)と言っているのもその証拠である。恥を体験している主体は本来は何にも恥じていず、むしろ恥とはまったく逆の傾向、すなわち露出傾向に対する防衛であるなら、真に自分を不甲斐なく思い、恥じ入る感情はどこで扱われるのだろうか?
ここでさきほどの独、英、日本語の対応表を思い出してほしい。フロイトが Schande は実質的に扱ってないことは述べた。フロイトが扱った恥は Scham であり、自己愛の傷つきとしての
Schande を扱ったわけではなかった。これがフロイトの恥の議論についての一つの結論である。ただし女性に特有の恥、器官劣等性に結びついた恥に関連した議論においては、そこに恥と劣等意識との関連が見られた。しかしフロイトはそれを Scham の文脈でのみ扱おうとしたために、その説明は十分なものとはならなかったのである。
そこでフロイトが
Schande を扱わなかった理由を問わなくてはならない。それはなぜだったのだろうか?
一つの見方は、これをフロイトが立てた理論が必然的に招いたものとする立場である。恥はフロイトが成立させた理論の陰で裏方を演じる羽目になった。彼はそれを特に意図したわけではなかったが、彼がいったん打ち立てたリビドー論の整合性を求める過程で、必然的に要請されたことになると考えられるのである。心にあるプライマリーな力ないしは動因(性的欲動)を想定した場合、それに対する対立項を想定しなくてはならない。恥や道徳心はその役割を担ったのだ。
このように考えれば、フロイトがリビドー論をそもそも選択しなかったとすれば、恥の議論もその理論体系に入ったであろうという可能性も見えてくる。人間の心の理解にあたって、リビドー論とはまったく別の体系のモデルを考えるべきだとの見解は、すでにフロイトの時代に、それも精神分析の世界の中ですでにあった。それはたとえば「対象希求性」を人間の精神にとってプライマリーなものに据えたフェアバーン(Fairbairn, 1952)であった。彼のモデルでは、フロイトが考えたような葛藤は、対象への愛が受け入れられない場合に生じるさまざまな心の問題という風に論じ直されることになる。フロイトの理論と違って、この理論(対象関係論)はエネルギー論ではないために、機械論的な変形や昇華ないしは心のメカニズムとしては想定しない。対象を希求するという欲求が阻止されたものは、エネルギーの変形としての症状ではなく、感情である。それはおそらく私たちが呼ぶ恥の感情や、自己愛の傷つきなどに近いものであろう。フェアバーン自身は恥を直接は扱わなかったが、後に同様の路線を引き継いだコフート理論では恥に類する感情はもっと中心的な役割を占める。このようにエネルギー論に従わなければ、恥はすぐにでも人間の心を扱う体系の中に入ってきてしかるべきものなのである。
フロイト理論が恥を扱わなかった可能性の少なくとも一つは、ここに示すことが出来るが、さらに問題となるのは、フロイトの日常的な感情体験との関連である。最近の恥にまつわる研究のほとんどが、恥がすべての人間がことごとく体験する感情であるという前提から出発している。もしそうならば、フロイトも同様に恥の体験を自分の中に持ち、そして患者の中に見いだしたはずである。フロイトはどうしてそれを彼の理論の中核に入れようとしなかったのか? その問題が次に問われなくてはならない。