2015年12月8日火曜日

精神分析技法という観点から倫理問題を考える(3)


米国精神分析学会における倫理綱領の抜粋
米国精神分析協会による倫理綱領Dewald, Clark, 2001を一つ一つ読むと、時代の流れを感じる。アメリカの精神分析協会といえば、最も保守的で伝統を重んじる機関のはずだが、そこで定められている倫理規定は決しては、以下にみられる通り「フロイトの唱えた基本原則を守り、正しい精神分析療法を施しなさい」という事ではない。ここで特に従来の「基本原則」に触れる可能性のある条項をいくつかピックアップして列挙してみる。
分析家としての能力
自分が訓練を受けた範囲内でのみ治療行為を行う。
理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。(以下略。)
平等性とインフォームド・コンセント
精神分析はインフォームド・コンセントに基づき、互いの同意のもとに行われなくてはならない。
立場を利用して、患者や生徒やスーパーバイジーを執拗に治療に誘ったり、現在や過去の患者に自分を推薦するよううながしてはならない。(以下略。)
正直であること
キャンディデート(候補生)は、患者に自分がトレーニング中であること、スーパービジョンを受けていることを伝えることが強く望まれる。
分析の利点とそれによる負担について話さなくてはならない。
 嘘をついてはならない。(以下略。)
患者を利用してはならない
現在及び過去の患者、その両親や保護者、その他の家族とのあらゆる性的な関係は非倫理的であり、それは分析家からの誘いによるものもその逆も同じである。身体的な接触は通常は分析的な治療の有効な技法とは見なされない。
現在および過去の患者やその両親ないし保護者との結婚は許されない。(以下略。)
患者や治療者としての専門職を守ること
難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない。
病気になったら同僚や医者に相談しなくてはならない。
患者の側からスーパービジョンを受けることを請われた場合は、その要求を真摯に受け止めなくてはならない。(以下略。)
医療倫理の四原則

ちなみにこの精神分析的な倫理綱領は、特に精神分析や精神医学に限定されない医療全般に関する倫理原則を背景としているといえる。そこでいわゆる医療倫理の4原則についても紹介しておきたい。それらは「無危害」、「善行」、「正義」、「自律尊重」と呼ばれるものだ。もう少し詳しくこれらを説明すると以下のようになる(9

1.無危害原則・・・「来談者に害悪や危害を及ぼすべきではない」。
2.
 善行原則・・・「来談者にとって医学的に最も適切で利益が多いと思われる治療行為を行うように勤める」。
3.
 正義原則・・・「社会的な利益と負担は正義の要求と一致するように配分されなければならない」。すなわち医療現場では、医療資源の公正な分配が必要であり、不正行為や不公平が生じてはならない。
4.
 自律尊重原則・・・「来談者が自分で考えて判断する自律性を尊重しなければならない」。来談者の主体性を尊重せよということである。
 従来の医療においてはこのうち善行原則が重んじられたが、最近では自律尊重原則を重視するようになり、そこではインフォームド・コンセントが特に重要であるとされている。
以上に示した精神分析学会の倫理綱領(抜粋)や、その背後にある医療倫理の4原則は、精神分析における技法にどのような影響を与えるのであろうか?一ついえるのは、これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではないということである。しかしそれらが「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。
 倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。すなわちキャンディデートは、患者に自分がトレーニング中であること、スーパービジョンを受けていることを伝えることが強く望まれる」という項目に従った場合、分析家は自分が修行中の身であり、ケースが上級の分析家により監督されていることを告げることになるであろう。このようなことは、従来の精神分析療法においては想定されなかったことであり、現在でもそのような方針は分析家の匿名性を犯すものとして、抵抗を示す分析家も少なくないであろう。
 同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。分析家が沈黙を守ってもっぱら患者の話を聞くという姿勢は、それが患者にとって有益となる場合も、そうでない場合もあろう。それは患者によっても、またその置かれた治療状況によっても異なる。そうである以上、中立性や受身性は、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
 ただし「基本原則」の中で禁欲原則については、少し事情が異なる。なぜならこの原則は倫理原則にある意味では合致した原則と考えられるからである。フロイトの「治療は禁欲的に行われなくてはならない」というこの原則については、禁欲する主体が治療者か患者かという問題について曖昧さが残るが(11)、通常はそれを治療者側のそれと患者側のそれとに分けて議論される(12)。このうち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。また逆に「治療者は患者の願望を満たさすことには禁欲的でなくてはならない」とするのであれば、これは上述の意味で相対化されるべきものであろう。なぜなら患者の願望の中にはかなえられるべきものとそうでないものがあるであろうし、一律に患者の願望をかなえないという原則を設けることは、非倫理的との批判に甘んじなくてはならないであろうからだ。 
 他方治療技法の中で「経験則」のほうはどうであろうか?先ほど「経験則」は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、と述べたが、それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。たとえば表層から、というのはそれにより患者のショックや侵入された感を和らげるという意味では倫理的な姿勢と方向性が一致するのである。