2015年12月7日月曜日

精神分析技法という観点から倫理問題を考える(2)


治療技法と倫理との関係
精神分析の理論の発展とは別に進行しているのが、倫理に関する議論の流れである。そして最近の精神分析においては、精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっている。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。考えてもみよう。様々な精神療法に熟知し、トレーニングを積んだ治療者が、実は信用するに足らない人物であるとしたら、いったいどのようなことが起きるだろうか?あるいは治療者があらゆる技法を駆使して治療を行うものの、それが結局は治療者の自己満足のための治療であったら?
 「治療者が患者の利益を差し置いて自分のために治療をすることなどありえない」、と考える方もいるかもしれない。しかし基本的には治療的な行為は容易に「利益相反」の問題を生むということを意識しなくてはならない。「あなたは治療が必要ですよ。だから私のところに治療に通うことをお勧めします」という言葉は一見自然に映るかもしれない。しかしそこには、すでに利益相反の要素が忍び込んでいるのである。
ここで少し私の私的な経験について書いておこう。私が米国のメニンガー・クリニックに留学していた時、最後のスーパーバイザーは少し変わった人だった。彼は若い頃はかなり厳格なフロイディアンだったが、ある時偶然が重なってシカゴにコフート理論のセミナーを受けに行くことになった。しかしその時からすっかり考え方が変わってしまい、後にメニンガーで随一のコフート派の論客になってしまった。彼はそれまでの分析の常識を覆すようなことを語るようになっていたが、ある時バイジーの私に明言した。「ある意味では、分析家は倫理的に問題ないのであれば、何をやってもいいということになるんだよ。」
 私は一瞬「あれ?」と思い、「いくらなんでもそれはないだろう」と思い、一生懸命それを反駁しようとした。しかしそれから二十年くらいになるが、結局彼の言ったことは正しかったと考えるようになってきている。そして彼の言葉は実に重要なテーマを投げかけてくれたとも考えている。「常に自分がやっていることの倫理的な意味を考えよ。」「非倫理的なことであれば、たとえ分析の教科書に載っていてもやるべきではない。」
これは実は何らかの精神療法のマニュアルに書かれている治療原則にのっとって治療を行うよりもはるかに込み入っていると考えている。
近年医療に関しても、サービス産業にしても、消費者ないしは受益者、英語ではconsumerと呼ばれる側の人たちをいかに守るかということが重要な課題となってきている。精神療法においても、患者の利益が最優先されるべきであることは論を待たない。治療の原則がいかにあるべきかは、医療の倫理性の追求と歩調を合わせなくてはならない。
いったいこの受益者優先の考えはどこから来たのだろうか?それはあまりに明らかなことだろう。それはサービスを受ける側であるコンシューマーたちが声を上げるようになったからだ。時代は明らかに一つのベクトルを持っている。それはあらゆる意味での差別や格差を撤廃するという方向性であり、平等主義である。もちろん局所的に見れば、差別やそれに基づく虐待が増加したり悪化している共同体もあるだろう。女性を奴隷扱いするISISなどはその一例かも知れない。しかし全体的な流れとしては明らかにこの平等主義に向かっているし、もちろん我が国も含めていわゆる先進諸国においてはそうである。そしてそれは精神分析の分野についてもいえることだ。私たちが本書で紹介している関係精神分析においても、そこにあらゆる学派に属していたり、異なる資格を有している人たちが集合している以上、そして多くの人権論者やフェミニストたちが属している以上、その傾向は特に強いといえるかもしれない。患者にとってフェアであることはその基本的な精神としてあるわけだ。
他方これを体験する患者の側を考えたらどうだろう? 私の考えでは、実は治療者の倫理性は、患者が感じ取るものであると思う。治療者が結局は同じ人間であるということは、技法やその表向きの表情を通して患者が感じるものである。「この治療者はいつも黙っていて能面のようだけれど、私の話を真剣に聞いてくれている」「この分析家はポーカーフェイスだけれど、それは分析がそういうものであって、本当は良心的で誠実な人だ。」という体験である。もしそれがなかったとしたら、患者はどうやって治療を続ける事が出来るだろうか?唯一の可能性があるとしたら、それをどこかで心地よく思っているマゾキスト的な部分が関係しているのではないか。
倫理の問題と訴訟との関係
精神分析において倫理の問題が問われるようになるという流れの推進力となったのが、訴訟問題である。 平等主義のもう一つの推進力、それは訴訟である。権力を持つ側が、それに伴う力の濫用を自ら反省し、襟を正すことは通常はありえない。力の濫用は被害をこうむった人々からの声により正されていく。ただし被害者は人類が始まって以来つねに存在していた。その声を無視しないだけの社会の成熟が必要だったと言える。
 精神分析に関する訴訟の中でも特に
象徴的な出来事が、米国でのオシェロフV.チェストナットロッジという訴訟(1980年)であった。
 42歳の医師オシェロフ氏は深刻な抑うつ状態に悩んでいた。そしてメリーランド州のチェストナットロッジという精神病院に入院した。しかしそこでは精神分析的な精神療法のみしか行われず、同氏のうつ病が改善することはなかった。同氏は別の病院に転院し、そこで薬物療法を受けて症状は改善した。そこでオシェロフ氏は、妥当な治療を施さなかったとしてチェストナットロッジを訴えたのである。
 この訴訟は最終的には示談となったが、これを一つの切っかけにして精神医学の世界でインフォームド・コンセントの問題がますます重視されるようになった。そしてこの事件が精神分析の世界に与えた衝撃は大きかった。それまで自らの治療の効果に関して比較的楽観的であった分析家達は、その治療法の有効性を説明し、それを薬物療法やそのほかの精神療法に優先して、あるいはそれと平行して行われるべきことを示す必要に迫られることになったのである。また他方では、精神分析の立場からの倫理綱領の作成が促されるきっかけとなった。
 現在米国の精神分析協会では、その倫理綱領を定めているが、その中には技法とのかかわりが重要になるものが少なくない。

身近に出会う倫理性の問題の例
 
その倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、二つ挙げておこう。
 1 インフォームドコンセント
一つ目はいわゆるインフォームド・コンセンの問題である。治療者の側の倫理としてまず関わってくるのが、昨今議論になる事の多いインフォームド・コンセントであり、それと密接な関係にある心理教育の問題である。インフォームド・コンセントが何を意味するかは皆さんご存知のとおりだ。患者さんに治療の選択肢としてどのようなものがあるのか、それぞれについてどのような効果が期待され、それに伴うリスクはどのようなものか、などを説明した上で、特に勧める治療に合意してもらう事である。そしてその前提となるのが、患者さんの病気や障害についての見立てを行い、その情報を開示し、必要に応じて心理教育を行なうことだ。これらのことをきちんと行なうためには、かなりの時間と精神的なエネルギーを要するし、そのための治療者側の勉強も必要となる。
 
しかしこのインフォームド・コンセントの考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。すくなくとも 精神分析の歴史の初期においては、分析的な技法を守ることと倫理的な問題との齟齬が生じる余地は考えられなかったといってよいだろう。精神分析的な技法に従うことは、より正しく精神分析を行うことであり、それは治癒に導く最短距離という前提があったからである。従ってそれをとりたてて患者に説明して承諾を得る必要はなく、またそれは治療者の受身性にもそぐわず、また患者に治療に対する余計なバイアスを与える原因と考えられることもあった。

2 症例発表の承諾

もう一つの例が、症例発表の承諾に関する問題である。学会や症例検討会などで症例の報告及び検討は欠かせないものであるが、実はその際に得るべき承諾の問題は、決して単純ではない。症例報告にはことごとく患者の承諾が必要なのか、それとも個人情報を十分な程度に変更したり一般化した場合には、承諾の必要はなくなるのか? これは決して単純に答えを出すことができない実に錯綜した問題である。その根底にある一つの大きな問題は、はたして承諾するか否かを尋ねられた患者の側に、どの程度それを断るという選択肢が自由に与えられているかという問題だ。これについてはギャバードが以下のように述べている。

10(「スーパービジヨンの使用」)に記したように, このアプローチの主要な欠点には,治療を行なう二者のプライバシーが侵害されるということやそのような環境では機密性が犯されていると患者が感じてしまう危険があるということがある。そのような状況で行なわれるインフォームド・コンセントが本当に自由意志によるものであるのかどうかには疑問符が付く。なぜなら,転移が強力すぎて嫌とはいえないのかもしれないからである。(長期力動的精神療法p228

このことはおそらく治療が終わった際の承諾にもある程度言えることであろう。さりとて症例提示を失くすことは、分析家としてのトレーニングや学術交流のためにありえないことを考えると、この問題については私たちが語るまいとする力が一番強いのかもしれない。