2015年11月17日火曜日

関係精神分析のゆくえ (2)

このところ絶対誰も読んでいない(最後まで読まない、読み飛ばす)と確信できる内容である。


私個人はこれについて次のようなスタンスを持つ。意識レベルの問題だけでも計り知れない。その背後にあるのは無意識であるが、それはあまりに複雑すぎて波が絶たないのである。複雑系の見地からみた無意識とは、巨大な神経ネットワークであり、そこで起きていることは計り知れないのである。
私はこの説明を、やはり気象学的にするしかない。心を知ることは、たとえば地球上で起きる地震や台風や火山の噴火の背後に何があるかを知ることだ。ただ多くの場合地球で起きることはあまりに複雑で、それをブラックボックスに入れたうえで、地上で起きていることに注意を向けるしかないだろう。地下で起きている出来事、宇宙全体で、あるいは太陽系で起きていることをことごとく計算に入れることは出来ないのである。そして心にも似たようなところがある。
私の述べていることは、無意識を軽視して意識レベルで起きていることを重要視するという立場とは違う。私は意識とは無意識が作り出した幻想であるという捉え方に賛成する。同様のことはジュリオ・トノーニの統合情報理論(IIT)や、前野隆司氏の受動意識仮説がすでに提唱していることだ。しかし無意識はデタラメに意識活動を生成しているのではなく、それはある種の創造性と反復の弁証法を示している。逆に言えば意識野で起きたことはそれを完全に理由づけすることなど決してできない。
意識の在り方としてより生産的なのは、その動きの持つ対人関係での動きである。こちらの方は関わる対象としての治療者のファクターを動かすことが出来るので、より生産的というわけである。心は一者心理学的であり、二者心理学的である。これは人間は氏か育ちか、という議論とちょうど同じなのだ。
関係論的な旋回としてMills は幾つかの特徴を挙げている。
1に、従来の匿名性、受け身性、禁欲原則への批判である。ある意味ではこれは当り前であろう。たとえば自己開示の戒めなどは、これが治療可能性を含んでいる以上は、RPの範疇に入ることになるだろう。従来の精神分析がある決まりの上に成立している以上、それに例外を設けたり、相対的な立場をとる動きはことごとくRPに属することになる。
2に、RPにおいては臨床家が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えた。RPの分析家たちは、互いの学会でも自分自身の心についてより語り、また自分たちをどう感じているかについて患者に尋ねるという傾向にある。つまりよりオープンな雰囲気を醸しているということだろう。そしてそれは患者の洞察を促進するための解釈、という単一のゴールを求めることからは明らかに距離を置くようになっている。
3に、彼らのスタンスは紛れもなく解釈学的なポストモダンなそれであり、そこでは混じり物のない真実に関する知識、客観性、実証主義などに関して明らかにこれまでとは異なる態度をとっている。これらのいずれもある意味では至極もっともなのであるが、これらに対してMills はどのような批判を展開するのだろうか?
それでは批判の目はどうか。こちらが大事だ。カーンバーグの2001年を除いては、ほとんどの批判は外部から来ている(Eagle, 2003; Eagle, Wolitzky, & Wakefield, 2001; Frank, 1998a, 1998b; Josephs, 2001; Lothane, 2003; Masling, 2003; Silverman, 2000)など。
グリーンバーク、ミッチェルが関係性の旋回を初めて提唱した時は、フロイトの欲動モデルを関係性により置き換えたものだった。その後グリーンバーグが「欲動だってまんざら悪くない!」と批判に転じたのはよく知られること。
Mills は関係論で特に問題とされる「間主観性」について論じる。この概念は特にジェシカ・ベンジャミンとロバート・ストロローの二人による精力的な著作により精神分析に導入されたが、200年前にヘーゲルにより考案されている。
スターン、ベンジャミン、ミッチェルの間主観性は、ヘーゲルそっくりだという。つまりそれは発達の一つの達成であり、赤ちゃんは徐々にお母さんにも主体性があるのだ、一個の人間なのだ、ということを認めていく。フォナギーのメンタライゼーションもそういうことだ。そしてこれが愛着理論ととても一致するという。ところが・・・・ちょっと難しくなってくる。