2015年11月16日月曜日

関係精神分析のゆくえ(1)


Mills, John (2005). A Critique of Relational Psychoanalysis. Psychoanalytic Psychology, 22(2), 155-188. 2006 を参考に、最近の関係精神分析の流れを探ってみる。

関係精神分析はそれ自体が明確に定義されることなく常に新しい流れを取り入れた動きの総体ということができる。そこでそれ時代がどのように動いていくかは、それこそdrunker’s walk というニュアンスがある。私は個人的には、ホフマンにより全体像を見せてもらったと思っているので、あとは補足の議論という理解をしている。それがどちらの方向に向かうかは、人々の関心が何に向かうかによる。しかし世界が全体としては平等主義、平和主義にゆっくり向かうのと同様、精神分析の流れる方向も基本的には平等主義であり、その背後には倫理的な配慮が基本的な原動力となっている。これまでの因習や慣習は、それが保持される根拠が示されない限りは疑問符を突き付けられ、必要のないものは排除されるという方向である。
 もちろんこのような流れは一見必然的なようでいて、行く手に障害がないわけではない。欧州の精神分析においては、関係性の旋回を、著しい退行であり、パターなリズムであるという激越な批判もある。(Carmeli,Z, Blass, RB (2010) The relational turn in psychoanalysis: revolution or regression? European Journal of Psychotherapy & Counselling, 12:217-224)関係論的な旋回は伝統への挑戦である。これまでの精神分析における伝統や慣習はどうなるのか?分析家の持つ権威はどこに行くのか?これほど大きな動きが抵抗勢力を伴わないはずはない。
 さて関係精神分析は米国ではその動きを徐々に拡大させているが、Mills はそこにいくつかの要因を見る。ひとつには分析的なトレーニングを積んだ心理士が増え、彼らは伝統的なインスティテュートによる教育ではなくより新しいトレンドを学んでいること。新しい著作の多くは関係性理論に関連するものであること。そして関係性理論になじみ深い分析家が主要な分析関係の雑誌の編集に携わるようになっていることなどである。

しかしその結果として向かう方向は、精神分析の伝統にとってはawkward な方向性と言えるであろう。Mills が指摘するように、最近の精神分析の焦点は意識の心理学といえよう。無意識の心理学としての精神分析ではなく、意識にフォーカスが当たっている。そしてその流れとともに、関係精神分析はますますその影響力を深めているようである。

無意識の探求はある意味ではフロイトの悲願であり、精神分析とは何たるかを定義するようなものであった。意識を重んじる関係性の理論は、分析なのか?という問いに対しては、関係精神分析家たちは依然としてなすすべもないままである。しかし臨床場面で起きていること、そして真に患者の助けになることは、その方向しかない。