2015年11月5日木曜日

最近のトラウマ理論 (3)


とにかくフェレンチもジャネも、どうしてここまで先駆的だったんだろう、と言いたくなるようなことを言っているのだ。彼は、もっとも破壊的なのが、「大人の罪悪感の取り入れ introjection of the guilt feelings of the adult」だという。これもその通りとしか言いようがない。臨床的にも「自分はダメだ、生きていても仕方がないんだ、自分が虐待者を誘惑したのだ」となる。しかも驚くべきことに、DIDの中には「お前が悪いんだ」とささやく黒幕がいるのだ。
ここで少し想像力を膨らませて考えてみる。私たちの内的対象とはなんだろうか。それは動画のようなものだ。と言っても普通は静止している。たとえば私が2年前に亡くなった母親をちょっと思い浮かべた時は、普通は静止画としてよみがえってくる。動画で言えば、 ▷」マーク付きだ。しかし想像力をたくましくして「動かす」こともできる。音声付きでも可能だ。すると懐かしい思い出がよみがえる。というよりはほぼ現在進行形でそれを追体験できる、というわけだろう。脳にはこのようなことを可能にするようなソフトが備わっているのである。その時私の母親イメージは、それに伴う様々な表象を総動員しているからあれほど感情を動かすのだろう。
 さて私の母親のイメージは、私の中の「母親人格」とはどうして言えないのだろうか?それは端的にそれが自律的でないからだ。ひとりで勝手に動き出したりはしないのである。そしてそれが表象と知覚の決定的な違いと言える。私たちがある体験を通常の形で持つとき、それは一度海馬を介して記憶され、その後に想起される。その時点ですでに自律性を奪われている。勝手に動き出したりしないし、いきなりありありと想起されることはない。しかしフラッシュバックにおいては、少なくとも「いきなり想起」があり得る。海馬を通した通常の記憶ではないからだ。そしてそれがさらに精緻化されると、いよいよ人格ということになる。その際その体験が生じた状況が重要であり、そこでは通常の思考機能が停止し、脳の別の部位に、あらたな二か所の部位が生じる。そう、二か所、なのである。一つは虐待を受けた側で、もう一つは虐待者の側。虐待的な状況で二つの主体が関与していたとしたら、それぞれが部位を得る。だから虐待者の自律性や黒幕としての出現が可能になる。


ここに至って私たちは取り入れには二種類あることに気が付かなくてはならない。一つは表象としての取り入れ。もう一つは脳の部位としての取り入れ。前者はちょうど私が一生懸命想起することでようやく語りかけてくれる母親のイメージ。もう一つは、私の場合には幸いにもそのようなことが起きなかったが、過去の虐待者が実際に自律的に動き、メッセージを送ってくるのである
ところで「瞼の母」はどちらだろうか?もちろん表象だ。自分でコントロールできることとは、それほど大事なのだ。私だって母親を思い浮かべる時は、できるだけベストなイメージを集めるようにしている。実際に生きている人間では、なかなかこれは出来ないことだ。