2015年10月17日土曜日

恋愛詐欺のナルシシスト(加藤チェック後)



サイコパスは人を利用するためには手段を選ばないところがある。男性なら男性的魅力や身体能力、経済力、女性なら美貌や優しさや性的魅力を惜しみなく表現して相手を騙す。彼らが「成功したサイコパス」であるなら、それだけ実際に自信にあふれ、自分を魅力的に見せる能力に長け、同時に相手の付け入る隙を見出すことに長けている。そして恋愛詐欺、結婚詐欺は、サイコパス型自己愛者の格好な活躍の舞台ということになる。
一連の婚活詐欺殺人でその名の知れ渡った木嶋佳苗被告のことを覚えていらっしゃる方も多いだろう。彼女もまた典型的なサイコパス型自己愛者だったと言える。
 事件の概要を少し振り返ろう。

20098HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%886%E6%97%A5"HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%886%E6%97%A5"6HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%886%E6%97%A5"埼玉県HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%A6%8B%E5%B8%82"富士見市の月極駐車場内にあった車内で、ある会社員男性(当時41歳)の遺体が発見された。死因は練炭による一酸化炭素中毒であったが、自殺にしては不審点が多かったことから警察捜査が始まった。その結果、男性は住所不定・無職の女性、木嶋佳苗(当時34歳)と交際していたことがわかった。そして捜査していくにつれ、木嶋には他にも多数の愛人がおり、彼らの何人かも不審死を遂げていることがわかった。埼玉県警は木嶋が結婚を装った詐欺をおこなっていたと断定し、9HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8825%E6%97%A5"HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8825%E6%97%A5"25HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8825%E6%97%A5"に木嶋を結婚詐欺の容疑で逮捕した。また、逮捕時に同居していた千葉県出身の40代男性から450万円を受け取っていたことがわかったという。
2010HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/2010%E5%B9%B4"1月までに、木嶋は7度におよぶ詐欺などの容疑で再逮捕されている。警察は詐欺と不審死の関連について慎重に捜査を継続させ。2HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8822%E6%97%A5"HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8822%E6%97%A5"22HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8822%E6%97%A5"に木嶋は殺人罪起訴された。窃盗罪詐欺罪などですでに起訴されており、あわせて6度目の起訴となる。10HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8829%E6%97%A5"HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8829%E6%97%A5"29HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8829%E6%97%A5"には東京都HYPERLINK "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A2%85%E5%B8%82"青梅市の当時53歳の男性を自殺にみせかけて殺害したとして警視庁に再逮捕された。ただし、被害者男性の遺体は、当時は「自殺」と断定されて解剖されていない例もあり、死因に関する資料が乏しい中での、極めて異例の殺人罪の立件となった。(Wikipedia「木嶋佳苗」の項目よりかなり引用した。)
木嶋は獄中にありながら、ブログを更新し、今年(2015年)になって自伝的小説『礼讃』を発表した。中には現代の女性に向けてこんなことが書いてあるという。
「女同士の付き合いにかまけて、男性を大切にすることを忘れてしまったのではないか?」「私は男性に対して演技をしたことはない。男性が望むことをするのが、私にとっての喜びであり、それが自然な行為だった。中略(男たちの抑圧された心の奥を汲取ることで)そうした心の深いところから無意識に湧き出たもののふれ合いは、セックスより強力な接着剤になる。その上、セックスも良ければ、離れられないのは当然だろう」。
保険金殺人をした女性がどうしてこのように人さまに説教をする心境になれるのだろう。これだけでも驚くべき自己愛である。しかも彼女は犠牲になった男性たちを救済していたかのように書いているのだ。彼女にとっては関係した男性に被害を与えたという実感すらなさそうである・・・・。
一般にサイコパス的な自己愛者がどうやって自分の行為を正当化するのかという問いへの答えがこの木嶋の筆致の中にある。彼(女)は自分のかかわりが喜びや興奮を他人に与えていると感じる。まるで彼らが死んだのは、その救済の代償であり、ある意味では自業自得であるかのように。
ここからは北原みのり 『毒婦 - 木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』 講談社文庫 2013年を参考にする。この本は裁判傍聴記であり、本人の思考や自己正当化などを見ることは出来ないが、彼女が傍目にどう映っていたのかを知る上で大いに参考になる。結論から言って、木嶋はサイコパス的な自己愛者の一型としての、恋愛詐欺のナルシシストといえると思う。
著者北原は傍聴を始めてすぐに、ある種の木嶋の魅力に取り込まれる。北原の記述をもとに少しまとめよう。木嶋は逮捕当時34歳、インターネットで知り合った男性たちから1億円以上のお金を受け取り、彼女の周囲では複数の男性の不審死が起きた。マスコミが特に注目したのは、彼女の容姿だった。「どうしてこんな容姿で、男たちを次々にだませたのだろう。もし彼女が美人だったら問われなかったようなことが、まるで大きな問題のように扱われた。」(北原P3)ところが筆者は法廷で見せる彼女の以外に繊細で洗練された身のこなしに驚く。周囲の傍聴人も「意外にいけるじゃないか」「可愛い」などの声が聞こえたという。そして法廷での彼女の服装の選択、書類にボールペンで文字を書くしぐさ、それらの一つ一つの所作が綺麗だ、とまで言うのである。
 裁判では彼女の犠牲になった男性とのかかわりが明かされていくが、彼らが彼女に引かれていくプロセスはそれなりによくわかる。メールの文章の量が多く、心遣いもこまやかである。自分のセックスの魅力や、誘いかけをさりげなく織り込む。実際に会って得意の料理でもてなす。多くの男性が一度会った木嶋に、見かけ以上の魅力を感じ、信頼を寄せていくのだ。そこにあるのは木嶋の自信にあふれたしぐさ、料理の腕前、気の配りの細やかさである。それでいて彼女はいつも男性と会う時、すっぴんで会っていたらしい。そして木嶋は自分の容姿に対する自信のなさを否定しない。むしろ「私は内面を磨いています」という言い方をして、誠実さや心の美しさ、人間的な魅力をさりげなくアピールするのである。そして男性が木嶋に会う際に同伴した家族などにも好印象を与える。
しかし、である。彼女の頭には男性が金づる以外の何物にも見えていない。ビーフシチューを振る舞うのと平行して、男性の自殺を装うための練炭をしっかり用意するのである。
本書を読む限り、木嶋は腕利きのサイコパスであったことがわかる。なぜ彼女がブランド品に身を包んだり、口紅を塗ったり、脂肪吸引をしたり、付けまつげをしたりしないのか。それは内面の美しさを「演出」するためだろう。人をだますのにあからさまな仮面をつけるのは逆効果であるということを彼女は知っている。内面から自然と誠実さがにじみ出てくるかのように見せることが彼女のテクニックなのだ。そしてそのためには、ある意味で自分が内面が美しく誠実であると信じ込んでいることが必要なのだ。この点がナルシシズムの真骨頂なのである。
 木嶋はおそらく自らを犯罪者、悪者とは思っていないだろう。彼女は確かに人殺しである。でもその部分と男性につくし信頼を勝ち得ている部分は見事に切り離され、別個に成立している。彼女の自伝的小説『礼賛』に見られるような、男性をあたかも救済していたかのような記述は、彼女の本心でもあるのだ。
先に、私はサイコパスには不安や恐怖が欠如していると述べた。それが彼らに妙な精神の安定や自信を与えるのである。木嶋佳苗の場合も、傍聴席で見る彼女は落ち着き払い、動揺することが少なく、それが彼女に独特の存在感と自信を与えていた。女性の傍聴者の中には、そのような木嶋に惹かれ、遠方から訪れる人もあったという。ふつうなら自分の運命がまさに左右される裁判に臨む際は、不安になったり動揺したりしてもおかしくない。ところが木嶋はむしろ自分がどう映るか、どのように見られているかを意識し、髪形や服装や靴に気を配っているようであった。この妙な、おそらく正当な根拠のみじんもない落ち着きと自信は、彼女が生理的、精神的な動揺をあまり感じていないとすると納得がいく。誰でも打ち解けた仲間と会話を楽しんでいる時には緊張せずに素の自分をさらけ出すであろう。それを彼女は法廷でやってのける。しかも動揺していないために、いかに人をだまし自分のコントロール下に置くかに精神のエネルギーを費やす事が出来るのである。
では木嶋の自己愛の部分はどうか。彼女は「頭のいい」人間である。自分がなれるはずのない姿は思い描かない。自分が美人でないことは最初から認めている。彼女が特に雄弁になるのは、自分のセックスの能力であり、これについてはよどみなく語ったという。
弁護士:「(男性は)感想を言いましたか?」
木嶋:「はい。今までした中で、あなたほどすごい女性はいない、といわれました。」
そこで傍聴席の空気が変わり、皆がぐっと身を乗り出した、と北原は書く。
「男性たちには、褒められました。具体的には、テクニックではなく、本来持っている機能が、普通の女性より高いということで褒めていただくことが多かったようです。」
私は社会勉強が足りないために、木嶋が言っていることがさっぱりわからないが、自分の身体部分をなにかとても自慢しているらしいことだけは分かる。殺人の被告として証言している女性が、ここまで言うだろうか。ここまで人は自己愛的になれるのだろうか。しかしそれ以外にも彼女はピアノはプロ級、料理の腕も一級品、と自分を売り込み、また実際の実力もそれなりに備わっていた。また彼女の書く字はとても端麗であったという。
木嶋の成育歴にも他のサイコパスと同様の点がみられる。それは特記すべきトラウマや虐待が見られないという点である。 木嶋は18歳で上京するまで、北海道の東の果て、別海町で過ごす。製材業を営む父親、ピアノの教師の母親のもとに生まれる。三歳、八歳下に妹、六歳下に弟が出来る。下の子供たちの面倒見のいい、「いい子過ぎる」長女として描かれる木嶋。父親を愛していたが、母親とは情緒的な距離があり、高校時代には一人で家を出て祖母宅で過ごすようになったという。
 以前にサイコパスたちにおいて、サイコパス性は幼少時から見られると書いた。さほど目立たない形ではあるが、木嶋のそれもすでにかなり若いころから発揮されていた。
高校時代から売春に手を染めていたといううわさがあったというが、陸の孤島にも近い狭い町ではあまり派手な動きは出来なかったのであろう。
むしろ才能を発揮したのはお金を引き出す方面だった。中学3年の時、家族ぐるみで付き合いのあった家庭から印鑑と通帳を持ち出し、60キロ離れた根室の郵便局までタクシーを走らせ、300万円の預金を引き出そうとして捕まった。わざわざタクシーで乗り付けた女子中学生は、当然のことながら郵便局職員に不審がられ、そこから発覚したという。
 しかし3年後の高校3年時には、木嶋は再び同じ家から通帳と印鑑を盗み出し、現金700800万を引き出すことに成功してしまう。返済した父親はさすがに、自分の娘が手の負えない存在であるということに気が付いたという。この大胆さ、図太さ。木嶋はすでに中学生にして、人を殺めこそしなかったが、サイコパス的才能を開花させていたといっていい。決して「たたき上げ」ではない、もって生まれた才能としてのそれを。       

私たちの中に潜む「サイコパス的自己愛」
                                 
サイコパス的な自己愛について論じることを終わるにあたって、一つ十分に議論していない問題について振り返りたい。実はこの問題を掘り下げると、サイコパスに関する話を進めにくくなると判断し、議論を先延ばしにしていた。その問題とは、私たち自身の中にサイコパス的な自己愛は、どの程度存在するのか、という、かなりアブナイテーマである。
これまでも述べたように、自己愛とは理想的な自己像に同一化して快感を味わう度合いにより判断される。他方のサイコパス性は他人をどの程度侮り、搾取し、時には危害を加えるかという問題にかかってくる。この両者が共存すれば、サイコパス的な自己愛者ということになる。
ではそもそもサイコパスとはどの程度存在するのか? これについてのロバート・ヘアの説は紹介した。大体サイコパスは人口の1%ということだ。ドラマになるような根っからのサイコパス、連続殺人犯になるような極悪人は100人に満たないという。そして全米にいる200万人、日本にいる100万人のサイコパスは、政治家、弁護士、医者、教授、会社重役などの様々な職種の中に紛れ、人を搾取するという理屈である。
 これらをプチ・サイコパスと呼ぶなら、それ以下の小者のサイコパス、言わば「マイクロ・サイコパス」(私の造語である)は、どうだろうか? 実はそこら中にいる、おそらく私たち自身である、という大胆な議論を展開しているのが、米国の心理学者ダン・アリエリーである。これは検討に値する。
アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みた。彼の著書『ずる嘘とごまかしの行動経済学』(櫻井祐子訳、早川書房、2012年)はその結果についてまとめた興味深い本である。
アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』(Simple Model of Rational Crime, SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるというものだ。要するにまったく露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうと考えるわけである。実はこの種の性悪説、「人間みなサイコパス」的な仮説はすでに存在していた。
しかしアリエリーのグループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は報酬を多くしても変わらず(というか、虚偽申告する幅はむしろ後ろめたさのせいか、多少減少し)、また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)、ごまかしは縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじてたもてる水準までごまかす」。 そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
 つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人は良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に自分は6尾釣った(ということは二尾は逃がした、人にあげた、という言い訳をすることになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。
 もちろん「4尾」を「6尾」と偽るのは、まさしく虚偽だ。自分は正直である、という考えとは矛盾する。しかし人間は普通はその認知の共存に耐えられる、ということでもあるのだ。先ほどのSMORCが想定した人間の在り方よりは少しはましかもしれない。しかしここら辺の矛盾と共存できる人間の姿を認めるという点で、かなり現実的で、私達を少しがっかりさせるのが、このアリエリーの説なのである。
 ここでこれまで検討した正真正銘のサイコパス型ナルシシストとこの議論を照らし合わせてみる。たとえば木嶋佳苗の心にあった矛盾は、「自分は男性を救済した」と「自分は男性を殺害した」という矛盾であったはずだ。彼女はこの途方もない矛盾を抱えることが出来たという意味では、やはりきわめて病的な心を持っていたということになる。
 しかしプチ・サイコパスたちはどうだろうか?米国でエンロンが2002年に破綻した時、一連の粉飾会計操作が行われている間、そのコンサルタントをしていた人たちは、不正が「見えていて」「見えていなかった」という。これを彼らは「希望的盲目willful blindness」と呼んだらしいが、その性質は本質的には「4尾」と「6尾」の矛盾と変わりない。しかしその矛盾の度合いが、ずっとサイコパスのレベルに近かったということだ。
 このように私たちの中にはマイクロ(私たちの大部分)から正真正銘(日本に100人?)まで様々なレベルのサイコパスたちがいて、自分たちの自己愛的なイメージと、それと矛盾するような現実との間に折り合いをつけて生きているのだ。そして繰り返すが、彼らに共通しているのは、「自分はイケてる」という、時には全く根拠のない思考なのである。
アリエリーの説は結局「人は皆マイクロ・サイコパス」であるということであろうが、それをもっと単純化させ、「人間はある程度の自己欺瞞は、持っていて普通(正常)である」と言い換えよう。これが含むところは大きい。人が真っ正直であろうとした場合、その人は強迫的な性格であり、病的とさえいえるかもしれないのである。
私はこれを人間の持って生まれた悪による行為と考えるよりは、心が必要とする「アソビ」(機械の遊びlooseness, allowanceに相当)であると理解する。私も「先生の発表には、何人くらいの人が聞きに来ましたか?」と言われたら、ざっと30人くらいかと思ったら、少し盛って「うーん、40人はいなかったかな?」などととっさに言っても特に後ろめたさを感じないだろう。人は自分自身に対して楽観的である、と言い直してもいいし、ほんの少しでも見栄えを良くしたい傾向がある、と考えてもいい。人前に出るとき、ネクタイを直したり、スーツの襟を直したりするのとあまり変わらないような気もする。それくらいのいい加減さでいいのだ。
最後に脱線の話をしてこの項を終わりたい。小保方さんの「スタップ細胞」をめぐる一連の事件、それから東大や京大の医学部で生じている論文の不正に関する問題を目にしながら、私は今、恐ろしい可能性について考えている。科学論文って、案外不正の巣窟なのではないか?データの改ざんは、私が想像していたよりはるかに頻繁に行われているのではないか?私はデータを取り扱う論文を書いたことがほとんどないので、量的研究論文を量産する人たちへのある種の畏れ多さを持つ。しかし「スタップ細胞」の論文がnature 誌にまで載ってしまうことを考えると、科学論文は、その気になれば、いくらでもデータの改ざんが出来るのではないかと疑ってしまう。なぜならば、データの信憑性を最終的にチェックする方法がないからだ。たとえ公正を期するために、「科学論文には、ローデータとして実験ノートの提出が必要である」という決まりを作ったとしても、そこに数字を書き込むのは当事者なのである。すべての実験過程で特定の第三者が目を光らせるなど、ありえない話だ。
この問題を調べているうちに出会ったのが、「データの仮置き」という言葉である。ある論文を書くとき、仮説に従った、出るべきデータを、仮にそこに置いた論文を作成する、ということがあるらしい。それをデータの仮置きというそうだ。東大の論文捏造が問題になった時、「仮置き」を誤って本当のデータと見なして論文を書いてしまったという。あってはならないことだが、これが巧みに私たちの心に侵入してきて、上の心の「アソビ」レベルで扱われたらどうだろう?マイクロサイコパスレベルの通常人が、ついつい犯してしまうような、通常の自己欺瞞の範疇に、これが入り込んだら?
 そのようなことが起きるからこそ、人はあれほど論文をねつ造し、データを改ざんするのではないか?最初の頃はあくまでも「仮に」置かれていたデータが、論文の提出期限が迫っても、なかなか実験データが上がってこないため、他の部分もその仮置きデータに沿って書き足されていく。あとは最後の最後にそこに正しいデータを入れ替えればいい、という段になって、例えば仮に置かれていたデータ「8.1」の代わりに「8.5」が実際のデータとして上がってくる。それだと論文を書き直さなくてはならない。その時実験結果を報告してきた院生に教授が尋ねる。「もう一度聞こう。君は目がかすんで、スクリーンの数字を、実際は8.1なのを8.5と読み違いをしてはいないか?え? 僕の言っている意味がわかるかい?」 そのような状況に立った院生の何人かに一人が、「ハイ、教授。正しくは8.1でした」と答える・・・・。そういう問題なのかもしれない。
あるいはインサイダー取引など、かなり怪しいのではないか?株の取引などしたことがないので純粋に想像だが、例えば知り合いの会社社長が電話をしてくる。「君にはいろいろお世話になったね。だから君には少しばかりお礼をしたくてね。わが社のある製品が、今度特許を取得して・・・・。おっと余計な話は禁物だな。じゃ元気でな。」
あれほど厳しく罰せられるインサイダー取引。でもこの種の会話をする人たちは正真正銘のサイコパスでなければならないのか?よくわからない話でこの章を終える。