2015年10月1日木曜日

ロジャース関連の自主シンポ


先日の心理臨床学会では、ロジャース関連の自主シンポに招かれた。そこではずっと名前だけは拝見していた岡村達也先生に会うことが出来た。彼はロジャースの文脈で、脳を熱く語る方なのである。ぜんぜん知らなかった。学者然としてすごくかっこよかった。それからもちろん国際医療福祉大学の、飯長先生。私の後に入ってこられた方だ。彼も相当に熱かった。ということでとてもいい体験だった。
その時作っていった原稿。
まずUPRは古典的分析の立場からは、治療者の逆転移であり、どちらかといえば妨げになるものと考えるのではないか? 古典的な分析においては治療者は患者の無意識を明らかにするものであり、フロイト自身もマイルドな愛他性は「治療の妨げにならない陽性転移unobjectionable positive transference として認めている。しかしUPRはもっと情熱的な、一種の愛情のようなものと理解しているのでそれは古典的な分析には属さない。何しろ「北風と太陽」の太陽部分だから。そして伝統的な精神分析は、この太陽の部分を徹底して敬遠してきたという伝統がある。ただし私自身は分析の世界ではアウトライアーOutlierですから、私は太陽部分の存在意義はあるし、ひょっとしたら治療のかなり大きな部分を占めるとさえ思うが、それは分析のテクニックの中には組み込まれず、むしろ分析を行う治療者の態度に関係し、それはおそらく分析プロパーというよりはセラピー全般に関わってくるものと考えている。
 ただし最近の精神分析ではそれを分析でカバーするという動きもあり、ただしそれはかなり分析プロパーから外れる動きといえる。ひとつはコフート理論、もうひとつはボウルビーに始まる愛着理論であろう。
コフート的には、彼自身が結局は言葉に表すことをしなかった、しかし治療の端々に現れた態度、特に最終公演でうつ病の患者さんに手を握らせたという行為に見られるもの。もうひとつはボウルビーが言った、「治療者の役割は、子供に安全基地を提供している母親のそれと類似している。子供はそこから世界を探索しに出かける。(ボウルビィ) 別にこれはウィニコットの抱える環境と言ってもいいでしょうし、コフートの自己対象も同じ路線です。
この安全基地ないしは抱える環境の提供という役割を持つ治療者としては、おそらく無条件の肯定的なまなざし、というよりはgood enough は指示的な存在ということが強調されると言えます。つまり程よい母親がどこかで共感不全を起こしたり、完全なる安全基地たり得ないことから、脱錯覚、ないしはコフートの言う変容性内在化というプロセスが生じてくると考えるわけである。
この立場からUPRを考えると、二つの論点が浮かび上がってくる。
1.ロジャースの主張に見えるような、可能な限り肯定的なまなざしの重要さということについては、そこまで頑張る必要はないのではないか。むしろそうしようとすることで余計な逆転移が生じる可能性があるのではないか?むしろ自然体で患者に対するまなざしを向け、むしろ同時に生じてくる逆転移を手掛かりにして両者の間に起きていることを明らかにしていく方針を選ぶのではないか、と思う。
私個人としては、やはりUPRは愛に読める。無条件の、というのは母親が子供に対して持つ気持ちが一番近い。とするとそれを一般の患者に求めるのは、多くの場合無理であろうし、ロジャースのように愛にあふれる人たちばかりではないであろう。むしろ普通の人が程よい治療者となるにはどうしたらいいかを考えるべきではないだろうか。
2.              治療者が患者に対して非指示的であるということについて。時には治療者をガイドし、示唆を与え、新しい体験を付与する必要性もあるのではないか。とすると時にはロジャース的ではないことをする必要も生じるであろう。それをするかしないかは、結局は自分がロジャース派の治療者であるかどうかということ。でもそれは患者には基本的にはどうでもいいことだろう。実はこれは分析的にやるかどうかに迷う分析家にも同じことが言える。
結局はこれからは、分析家としてのみやっていく、ロジャース派としてのみやっていく、ということは難しい状況にあるのではないか。患者はさまざまなものを必要としているし、それを○○学派に従わせるわけにはいかない。