4.最後に ― 倫理について学び、後は自分で判断せよ
30年前に初学者であった私に告げたいことの最後は、倫理についての問題である。私がこの話を聞いていたら、ずいぶん目の前が開かれていただろう。それは精神療法に唯一の正解があるとしたら、それは常に治療場面において倫理的な方策が選ばれるべきである、ということだ。
精神療法の技法としては様々なものがすでに存在するし、これからも編み出される可能性がある。しかしこれらの試みを底辺で支えているのが倫理の問題でなのである。治療論は、倫理の問題を組み込むことで初めて意味を持つのである。考えてもみよう。様々な精神療法に熟知し、トレーニングを積んだ治療者が、実は信用するに足らない人物であるとしたら、どのようなことが起きるだろうか?あるいは治療者があらゆる技法を駆使して治療を行うものの、それが治療者の自己満足のための治療であったら?
精神療法の技法としては様々なものがすでに存在するし、これからも編み出される可能性がある。しかしこれらの試みを底辺で支えているのが倫理の問題でなのである。治療論は、倫理の問題を組み込むことで初めて意味を持つのである。考えてもみよう。様々な精神療法に熟知し、トレーニングを積んだ治療者が、実は信用するに足らない人物であるとしたら、どのようなことが起きるだろうか?あるいは治療者があらゆる技法を駆使して治療を行うものの、それが治療者の自己満足のための治療であったら?
このような問いを発しただけでも、実は倫理の問題は心理療法を行うことそのものの中で最優先されるべき問題であることがわかるだろう。
もちろん何が倫理的に正しいかを誰も教えてくれない。ただ一つの倫理的に正しい方針というものもない場合が少なくない。誰にとって倫理的か、という問題もある。だから「倫理的に正しい道を選ぶこと」は決して容易ではない。
倫理的な問題の例として私がしばしば掲げるのが、自己開示の問題である。こんな状況を考えよう。治療者がクライエントの陥った問題について話を聞いて行き、「私にも同じ体験があるからわかりますよ。」と告げたとする。自己開示である。ただしそれが治療的に持つ意味は、文脈によりさまざまに異なる。精神療法のテキストに「自己開示はすべきでない」と書かれているから間違い、というわけではないし、あるスーパーバイザーに「自己開示は遠慮なくすべし」と言われていたから正しい、というわけでもない。それが倫理的に肯定されるべきか、ということに従ってその是非が判断されなくてはならないのである。
倫理的に正しい、とはすなわち「クライエントにとって治療的な意味を持っている」ということである。たとえば治療者も同じ体験を持っているということを知ることで、治療者から与えられた共感がうわべだけのものではないと感じられたとしたら、この自己開示は肯定されるべきであろう。しかしクライエントが「私の話をしているのに、自分の話を割り込ませないでほしい」と感じたとしたら、それは非である可能性がある。もちろん現実はこれほど簡単ではなく、自己開示は様々なインパクトを有し、治療的な意味も非治療的な意味も持ち合わせるめ、一概にその是非を判断できないが、今度はそのインパクト自体を話題にするという方針も開かれていく。
倫理的に正しい、とはすなわち「クライエントにとって治療的な意味を持っている」ということである。たとえば治療者も同じ体験を持っているということを知ることで、治療者から与えられた共感がうわべだけのものではないと感じられたとしたら、この自己開示は肯定されるべきであろう。しかしクライエントが「私の話をしているのに、自分の話を割り込ませないでほしい」と感じたとしたら、それは非である可能性がある。もちろん現実はこれほど簡単ではなく、自己開示は様々なインパクトを有し、治療的な意味も非治療的な意味も持ち合わせるめ、一概にその是非を判断できないが、今度はそのインパクト自体を話題にするという方針も開かれていく。
もしこの倫理の問題を常にもっとも優先順位の高いものとして頭に描いておくと、どのような学派の理論を学んでいようと、自分を見失わずに済むであろう。
すでに別の個所でも論じたことであるが(岡野、2012a,2012b)、精神分析の世界では、理論の発展とは別に倫理に関する議論が進行している。そして精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっているのだ。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
2007年に作成された米国精神分析学会の倫理綱領には、分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、患者を利用してはならないこと、患者や治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている(Dewald, et al 2007)。
これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが精神分析における、匿名性、禁欲原則などの「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。このように考えると、いたずらに精神分析の教えに従うべきではないということを、分析学会の倫理綱領自体が言っているようで興味深い。
すでに別の個所でも論じたことであるが(岡野、2012a,2012b)、精神分析の世界では、理論の発展とは別に倫理に関する議論が進行している。そして精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっているのだ。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
2007年に作成された米国精神分析学会の倫理綱領には、分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、患者を利用してはならないこと、患者や治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている(Dewald, et al 2007)。
これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが精神分析における、匿名性、禁欲原則などの「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。このように考えると、いたずらに精神分析の教えに従うべきではないということを、分析学会の倫理綱領自体が言っているようで興味深い。
さて話を一般的な心理療法に戻そう。倫理的に何が正しいかは、テクストはなかなか教えてくれないのであるが、その理由は、それがあまりにケースバイケースだからだ。「私にも同じ体験があるからわかりますよ。」という治療者の簡単な自己開示でさえ、状況によっては治療的にも非治療的にもなる。それを場合分けをして事細かに説明すれば、それだけでテキストが一冊出来てしまう。
では倫理について考える際、何が導き手になってくれるかと言えば、それは自分自身の感覚である。治療者が自分は社会の中で他人と平和に暮らしていく能力を持っていると感じるのであれば、物事の良しあしを判断できる能力を持っていると考えられよう。するとクライエントとの関係で自分が発する言葉や振る舞いが、自分の側の願望を満たすためのものか、相手のためのものなのかは、ある程度は直感的にわかることだ。なぜ「ある程度は」と但し書きをするかと言えば、相手の言動がどこまでその人自身の都合によるものか、自分のためを思ってしていることかは、なかなか判断が付きにくいことだからだ。実際相手のためを思ってしたことが誤解されることはいくらでもある。あるいは自分の都合でしたことを、逆に感謝されてしまうこともある。しかしその人との関係を続けていくうちに見えてくるものもあり、その中で相手に利用されている感じ、騙されている感じを抱く場合、そこにはかなり信憑性がある。
では倫理について考える際、何が導き手になってくれるかと言えば、それは自分自身の感覚である。治療者が自分は社会の中で他人と平和に暮らしていく能力を持っていると感じるのであれば、物事の良しあしを判断できる能力を持っていると考えられよう。するとクライエントとの関係で自分が発する言葉や振る舞いが、自分の側の願望を満たすためのものか、相手のためのものなのかは、ある程度は直感的にわかることだ。なぜ「ある程度は」と但し書きをするかと言えば、相手の言動がどこまでその人自身の都合によるものか、自分のためを思ってしていることかは、なかなか判断が付きにくいことだからだ。実際相手のためを思ってしたことが誤解されることはいくらでもある。あるいは自分の都合でしたことを、逆に感謝されてしまうこともある。しかしその人との関係を続けていくうちに見えてくるものもあり、その中で相手に利用されている感じ、騙されている感じを抱く場合、そこにはかなり信憑性がある。
クライエントと治療者の関係の中で、治療者の逆転移に影響されたかかわりが生じる時、おそらくそれに先に気が付くのはクライエントの方であろう。「何かがおかしい気がする。」「あの治療者をあまり信用できないような気がする。」そう感じて治療者に問いただすこともあるかもしれないが、黙ってその治療者のもとを去ってしまうことも少なくない。治療者の側はそのことを深く内省したり、スーパーバイザーに指摘されるまで気が付かない可能性がある。そのような時に考えられる一つの手段は、自分が患者の立場ではどうしてほしいか、何をしてほしくないかをシミュレーションすることである。それがかなり治療場面での倫理性について考えるうえで助けにある。「私にも同じ体験があるからわかりますよ。」という言葉は、自分を目の前の患者の立場に置いて聞いてみた場合に助けになると感じられるならば、倫理的な対応である可能性がある。ただしそれは目の前のクライエントがあなただったら、の話である。そのクライエントがもし以前に自己開示に不快な反応を示したとしたら、その部分を差し引いて考えなければならないのは当然だ。しかしほかに判断の材料がない場合に、自分が出来るだけ相手の立場に感情移入をした結果、言われたり行ってほしいと思える介入は、おそらく倫理的である可能性がある。私はこれを特に心理療法に限定して行っているわけでは、実はない。人は他人に言葉を変える時、「自分だったらOKか?」という最終チェックのみを頼りにしているものなのである。
この最後の部分は極論かも知れない。しかし初診の治療者が最初に陥る極論としては、決して悪くないものと考えている。