2015年10月10日土曜日

心理療法の初学者に向けて(しつこく推敲) 2

2.仮の治療目標を「クライエントの孤独感を和らげること」と設定してもいい

海図のない航海のような心理療法に携わる治療者が目標とするものとしてもう一つ挙げたい。それは「クライエントの孤独感を癒す」ということである。
そしてこれも実は上述の「理解してもらうこと」とも通じる。以下の内容は、「心理療法家の30の心得」の内、第23で述べた内容と大幅に重複することをお許しいただきたい。
「クライエントの孤独感だって?そんなものを扱うためにわれわれは心理療法をしているんですか?」という人もいるかもしれない。しかし考えてもみよう。私たちの活動の大半が、仕事であれ趣味であれ、自分の孤独感から逃れるための活動だったりするのだ。
 もちろん逆に孤独に逃げ込みたくなる人もいるかもしれない。日常の仕事や学校生活における人間関係に疲れて、それらから一時的にでも退避したくなる人たちだ。しかし彼らでさえ長い週末や長期の休みになれば、あるいは長期間独身生活を続けていれば、配偶者が長い里帰りや単身赴任をしてしまえば、あるいは孤独な老後を迎えたならば、心のどこかに空虚さを感じ、それを埋めようと必死になるものである。
 さらに私たちの孤独感は、見かけ上は孤独ではないような状況でも体験されるから厄介である。人生の岐路に立たされて深刻に迷い苦しんでいるとき、それを聞いてくれるはずの配偶者や主治医の無理解を痛感した場合、最悪な孤独感が襲ってくるかもしれない。「一緒にいるのに孤独」。無理解で別の世界にいるような配偶者といると、一人でいるよりもっと孤独に感じる、という人は多い。
 あるクライエントは職場で深刻なモラルハラスメントを体験したそうである。そして帰宅してそれを夫に話すと、彼はこう言ったという。「そう、よかったじゃない。キミはこれまであまりそういうつらい体験をしたことがなかったんだから。いい人生勉強だよ。」その体験がそのクライエントにとって結果的に人生勉強になったかは別として、少なくとも彼女は夫の言葉によって深刻な孤独感に突き落とされたことは確かだったのである。
 この孤独感の問題が、「理解してもらうこと」の先に、あるいは奥にあるという点は分かっていただけるであろう。そしてそのような人たちにとっては理解を示してくれる面接者の存在は、この苦しみの一部を癒してくれる可能性があるのである。
なぜ理解してほしいのか。それは苦しみを抱えている人の多くが、その苦しみを誰にも理解してもらえないことの孤独感が背後に存在しているからである。
 患者の持つ孤独感については、「自然流精神療法入門」(星和書店、2003年)でもある程度紙数を割いて述べたことであるが、ここでも少し繰り返しておこう。人生の上である種の問題に直面することで味わう苦痛のかなりの部分は、実は孤独感に関係していることが多い。それはその問題の特殊性、それを体験した人の気持ちをわかってもらえないままで過ごすことの孤独である。その時もし目の前の誰かが聞いて、「それは大変ですね」と伝えたとしよう。すでにその孤独感の一部は癒されている。理解されることはもう一人の自分を作ることになり、それが私たちを孤独から多少なりとも救ってくれるのである。孤独とは、常に誰かに付き添ってもらうことで和らぐとは限らない。週に一度しか会わない面接者との間でそれが癒されることもあるのだ。
 もちろんその人はあなたの問題を本当の意味でわかってくれているとは限らない。「どうしてそんなことで悩むの?」と言われてしまうかもしれないし、その人はもしかしたら腹の底であなたの不幸を嗤っていないとも限らない。だから人に話すことは難しいのであるが、それでも私たちは悩みを抱えた場合に、それを一人で抱え続ける代わりに、誰かに話すことを選ぶことが多い。時にはペットの犬に向かってさえ私たちは話しかける。「今日ね、ひどいことをお客さんに言われたんだよ。どうしてお客ってあんなに上から目線で店員に文句を言うんだろうね?」それを言われた犬はもちろんわけがわからないが、一生懸命ご主人様の気持ちを読もうとその目を見つめる。それでも少しは気持ちが和むだろう。少なくとももう一人ではないからである。
 このように考えると私たちがなぜ感動を思わず言葉にする傾向があるのか、時には独り言にしてまで気持ちを表現するかが理解できる。楽しいことがあった時はそれを話す相手がいない時に、つらいことがあったときはそれを理解してくれる人がいない時に、私たちは孤独を感じ、それを耐えがたく思うのだ。独り言でもいいからそれを想像上の誰かに伝えることで、その孤独感を和らげるのである。
 治療者が毎週ないしは隔週にクライエントと会うたびに、そのクライエントが少なくとも孤独感からは救われ、生きる勇気を少しだけ与えられて帰っていくとき、それを治療者が実感しない時があるとしたら、それはなぜだろうか?ひょっとしたら治療者が「幸福すぎる」からかもしれない。そんなことでも自分の存在が役に立っているということが信じられないのである。あるいはクライエントの苦しみのレベルに波長を合わせることが十分にできていないと感じるからかもしれない。それでも面接者は結果としてそれなりに役に立つことができる場合があるとすれば、そのことはおそらく感謝すべきことなのかもしれない。
初心の治療者は、患者の話を理解し、彼が「理解してもらえた」という感覚を持つことをとりあえずの目標と定めてよい。しかしもし「どうして理解することに意味があるのだろう?」と疑問に思ってしまった治療者への答えとして私が用意するのが、この孤独感のテーマを思い浮かべてほしいのである。


3.「不測の事態」に備える

初心の治療者の経験不測が、特に治療に不利に働いてしまうことがある。それがいわゆるイレギュラーな事態、通常は起きないような出来事が生じた場合である。もっとも冒頭に述べたように全くの未経験の段階では、人は「何がわからないかがわからない」状態に置かれている。初診の治療者にとっては、クライエントとの間に起きることはことごとく予想外、イレギュラーな事態かもしれない。その場合とりあえずは思いついた手段を手当たり取ってみる、という方針に従う以外にないかもしれない。学習とは本来そういうものであ利、それが最も効果的であるという考え方も成り立つ。白紙の状態でコンピューターを与えられた子供が、全くの試行錯誤でその世界を探索しているうちに、誰も教わらずにエキスパートになってしまうような例は実は多い。ピアノの鍵盤を前にしたサバン症候群の子供が独学でピアノが弾けるようになってしまうのも同じような例である。
 しかし心理療法に関わるものが、同じように試行錯誤でそのやり方を学んでいくわけにはいかない。なぜならそこにはクライエントという生身の人間が関与し、援助を求めているからだ。クライエントとの間で試行錯誤を行うことには倫理的な問題が関わってくると考えてよい。しかしだからといって、クライエントの対応に窮した治療者が、いきなり心理療法の教科書を開いたり、スーパーバイザーに電話を入れてお伺いを立てたりするわけにもいかない。臨床場面はいつも待ったなしなのだ。
 そのように考えると治療者がおき得るべき不測の事態にどう対応すべきかをあらかじめ考えていることは決して無駄なことではない。自動車教習が学科から始まるように、心理療法にもある種の座学が必要であるとすれば、どのような不測の事態が生じる可能性があり、どのような対応策があるのかを考えさせるような内容が望まれるであろう。
「例えばクライエントさんから戴きものをしてはいけない」「クライエントさんとの身体接触はご法度である」「クライエントさんからの個人的な質問には答えてはならない」などの、「~してはならない」という警句は不思議と初心の治療者の中にはインプットされている。これらの警句はおそらく成書で学んだり、授業で聞いたり、スーパーバイザーから言われたり、ということ話に、不思議と伝わってくるものらしいのだ。しかしいざ具体的な例になると、初心の治療者はたちまち当惑してしまうものである。

 ある大学院生の「学生カウンセラー」は、あるクライエントに「先生と一緒に食べようと思いました」とケーキを持ち込まれた際に、付き合って食べてしまった後、深刻な顔をしてバイザーである私のもとに「大変なことをしてしまいました」と告白しに現れた。「患者さんから物をもらってはいけません」という言葉が頭に残っていたからであろうか。ちなみにその院生さんは社会経験を積んだうえで心理士を目指して入学した人である。社会的な常識は十分ある人だ。そのような人にとってもやっていいこととタブーなことが決まっていると考えられる傾向にあるのが、この心理療法である。
このような場合どうするのか、はいくらでも心の準備をできることである。ケーキを食べるのかどうかを何を基準に判断するのか、その根拠は何か、そのもらい物の「市場価値」がどう影響するのか、あらかじめ戴きものをしないことになっていると伝えているのか否か、その職場のポリシーはどうなっているのか、戴きものを断った際に治療関係にどのような影響が及ぼされるのか・・・・。

ちなみに私は不測の事態について考えるための本を研究会の仲間と編んだことがある。「女性心理療法家のためのQ&A(星和書店、2007) 「心理士が仕事が終わり帰宅をしようとしたら、先ほどあったクライエントさんが門の所で待っているのが見えた。どうしたらいいか?」「目の前でクライエントさんが刺青を見せようとしてTシャツを脱ぎ捨てた。どうすべきか?」「クライエントに散歩に誘われた。どう対応をすべきか?」「隣の面接室から、大きな声が聞こえた。どうすべきか?」などなど。このような「不測の事態」の実例を通して、あらかじめシミュレーションをするための機会を提供している。あえて一つの答えを提供することなく、いくつかの考えの筋道を提供することに心を注いだ本である。

心理療法のプログラムがまだ座学である内に、このような本を読んだり、実際の臨床例をもとにディスカッションすることでイニシャルケースを持つ際の覚悟は結構出来上がるのではないか、と考える。そこでの「基本理念は、クライエントを前にして実際に起きてしまってから考えるよりは、起きる前に考えておこう。」ということになろう。