2015年10月9日金曜日

心理療法の初学者に向けて(しつこく推敲) 1



初学者の陥りやすい思考

初学者について何かを書くとなると、結局アドバイスめいたことになってしまって恐縮である。でも30年前の初心の自分に出会ったとしたなら、言ってあげたいことはいくつかある。そのつもりで書いてみようと思う。
 私たちはいつの年代になっても、何事かについての初学者としての経験を持つ可能性がある。趣味や学問で新しい分野を開拓する時、あるいはまったく新しい職場環境に入る時、私たちは右も左もわからない状態、ないしはそれに近い状態になる。そしてその状態で陥りやすい思考がある。その思考のために失敗もするはずだ。そこで初学者にとって助けになるのは、その陥りやすい思考、行動パターンをあらかじめ知っておくことであろう。出来れば自分自身が特に起こしやすい傾向を知っておくことがより望ましいだろう。
さて、この「右も左も分からない」、という状態を言い換えるなら、「何が分からないかも含めて分からない」という状態である。そのような状態で通常考えるのは、これから自分が学ぼうとすることにはある種の「正解」が用意されているはずだ、ということである。あるいは正解はないとしても、専門家の間で何らかのコンセンサスが成立しているはずだと考えるであろう。そして初学者はその正解を、ある種の手続きを踏むことで学ぶ手段がどこかにあるのであろうと考える。

初期の「刷り込み」問題

 初学者は不安や好奇心に駆られ、上述の「正解」を得るために、成書を買い求めたり、その道の先達に教えを乞うたりするであろう。そしてそれらにより得られる情報を、その正解そのものであると考え、さっそくそれを取り込もうとするだろう。これは一種の「刷り込み imprinting」に近い状態といえる。あるいは「最初に与えられたベクトル、方向性」と考えてもいいかもしれない。
このような初期の「刷り込み」と共に出発した初学者は、徐々に自らの経験値を蓄え、それとともに「自分が何がわからないか」を漠然と知るようになっていく。そしてその世界で正解と呼ばれるようなものは少なくとも自分が考えていたほどの明確な形ではどこにも存在しないのだということが見えてくるだろう。しかしそれでもこの初期の「刷り込み」は、結構尾を引くことが多い。もちろん初学者がいろいろな理論を勉強することで自分が「これが本物だ」、と思える考えや理論に逢着し、最初の「刷り込み」から脱出してそちらに乗りかえるということもあるだろう。しかしそれが起きないで経験値が増すにつれ、この刷り込まれたものがひとつのアイデンティティとして獲得されてしまう場合もあるということも十分ありうる。
もちろんそのような事情は、職業選択にしても、対象選択にしても頻繁に見られることである。相手がたくさんの選択肢の中で最善だと判断されたから、というわけではなく、出会ったという事実そのものが自分のそれからの一生を決定する上での最大の根拠となるのである。

もちろんこの小論は、初学者たちに「○○の学派をおすすめします」「××は敬遠したほうがいいですよ」と伝えることを目的としているわけではない。ただ自分がどのような刷り込みを受けているのか、どのような初期値を与えられているのか、ということを意識しておくことはきわめて重要だということを主張したいのである。

さて私はそれを以下の3つの項目に分けて示したい。それらはいずれも、精神療法という大海で迷子になってしまわないための方便なのである。

1.立ち往生しないために
2.倫理を学び、あとは自分で判断せよ

3.非防衛性を旨とせよ。


1.立ち往生しないために ―面接方針を「共感するための明確化」と考えよ

もし初学者が面接中に突然、頭が真っ白になったらどうしたらいいだろう?たいていこの「真っ白状態」は、クライエントとの間での沈黙が生じた場合に起きる。初学者はこの沈黙を自分で処理しなければいけないと思う。ちょうど友人との会話の中で、自分の不用意な発言で気まずい沈黙が流れたときのように。しかしその沈黙を患者の前でどう扱ったらいいかかわからずに、パニックになってしまうのだ。
 おそらくクライエントの側からすればそんなことが自分の治療者に起きることなど想像しないだろう。彼らは自分の問題をいかに語るかで精いっぱいかもしれない。自分の恥ずかしい話を聞いてどのように思われるかが心配でしょうがないかもしれない。そのような彼らに、治療者のあせりの表情を見る余裕などないのだ。しかしそれは実際に起きうることだ。
 私は時々初心の治療者が心理療法の進め方がわからず、途方に暮れている姿を見かけることがあるが、それも無理はないことだと思う。心理療法とは本来海図のない航海のようなものである。カウンセリングを教える側も、その方法を順を追って懇切丁寧に示すわけでは決してない。ベテランの面接者でも、自分が何をすべきか、治療がどこに向かっているかが、ふとわからなくなってしまうことがしばしばあるものだ。
 もちろん初診の治療者にとっても、このような不安や懸念がほとんど起きないようなセッションもある。クライエントがある辛い体験について息をつく間もなく語り、治療者がその話に相槌を打ち、共感を示すことで時間が過ぎていく。セッションの終了時にクライエントは少し気持ちが楽になったと感謝の意を表し、次回のセッションを待ち望むというような状況である。そのような面接は、いわばクライエントの側が面接者の手をとり、進むべき方向に導いてくれているようなものだ。しかし時間がたち、クライエントが最初に持っていた治療への期待や情熱を失いかけた時、あるいは最初から受診に消極的だったり、治療時間中ずっと黙っていたりする時、治療者はふと疑問を感じる。「そもそも心理療法とはなんだろう? 私は今クライエントの前で何をすべきだろう?」そのような疑問は面接者が初学者であればなおさら起きてもおかしくない。
 そのような時、面接者がクライエントの治療動機、ニーズを改めて捉えなおすことは重要であると思う。「結局セッションに何を期待しているのだろう?」さらに端的に言えば、「セッション中の面接者とのかかわりの中で、何に、どこに達成感や安心感や癒され感、心地よさを感じているのだろうか?」と自らに問うてみることだ。
 面接者とクライエントの関係は非常にドライなものになりかねない。特に決して安くない料金が絡む場合にはなおさらである。クライエント側としては、自らのニーズが満たされなければ、一回一万円近い料金を支払うセッションを続ける意欲を早晩失ったとしても、それはもっともなことだ。一セッションごとにニーズが満たされれば、治療は継続していくと考えていい。逆にそれが起きていない時、面接者は大海原で無風状態に遭遇した帆船のような気分になるのである。
 クライエントのニーズは実にさまざまである。とにかく一方的に気持ちを吐き出す機会を求める人。セッション中ずっと面接者が目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは自分の持ち込む質問に的確に答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、あるいはそれらの根底にあるものとして、クライエントの「理解してもらう」ことのニーズがあることを、特に初心の面接者は心得るべきである。それはかなり直接的に面接における心地よさや満足感と結びついている。
 私がなぜこのように考えるかといえば、これまでの経験上、クライエントの置かれた状況や有している精神疾患にかかわらず、「理解してもらう」ことが満足感の重要な部分を形成しないというケースは思い出せないからだ。人が心を持つとはすなわち、他者からそれを「理解される」ことを希求することとほとんど同義である。どんなに深刻な妄想にとらわれていても、どれほど深刻な自閉傾向を持とうとも、理解してもらえることが安心感や心地よさを生まないということは考えられない。
 もちろんクライエントが被害妄想に駆られている場合には、「理解される」ことは「知られる、暴かれる」という感情をも生み、恐ろしい体験ともなりうる。しかし「理解されることが恐ろしさを生む」ということの苦しさを「理解される」ことは、結局はその人にとって安心感を生むはずである。
 またアスペルガー障害のクライエントで、人の気持ちを理解することにほとんど興味がなくても、あるいはいかに特異で奇妙な思考パターンや想念を持ち、それが人には理解しがたいということを思い当たらないような場合でも、それだからこそ彼らは「理解される」ことを渇望するというところがある。なぜなら彼らはおそらくその独特の思考や行動パターンのために、これまで誰からも理解されずにさびしい思いをし、孤独感を抱え続けてきた可能性が高いからだ。少し逆説的な言い方をすればこうである。「世の中でもっとも人から理解しがたい考えを持っている人こそ、人から理解してもらえることを強く希求しているということになる」のである。
 ここでシンプルな提言をするならば、治療の目的を、患者の置かれた状況を理解すること、と取りあえず見なしても問題ないということだ。そうすることで初心者が一番頭を悩ます沈黙の問題はわかりやすくなる。沈黙はクライエントの反応を待っているか、あるいはこちらが次の質問を投げかけるためのタイミングをうかがっているかの二つに一つでしかない。
 実は治療者はクライエントの前で頭が真っ白になっている余裕はないはずなのだ。なぜなら治療者は可能な限りクライエントに質問を投げかけることで、「理解してもらう」というクライエント側のニーズに応えなくてはならないからだ。(そしてこれは「シャドー」で練習できることなのだ。初診の治療者は実際の患者がいなくても、練習ができるのだ!名づけて「シャドー問診」である 後述。)
 ちなみにこの問題は、治療者のセッション中の質問の問題にもつながる。精神分析ではよく「分析家は余計な質問はすべきでない」ということを聞くことが多いが、実際の臨床場面では、たとえ精神分析でも治療者が患者に何らかの問いかけをすることはきわめて多い。ここで治療者が向ける質問に関して一つのシンプルな理解を示すならば、治療者の質問は患者を理解し、最終的に共感をするための手段だということである。患者の体験を心に写し込むためには、詳細を明らかにしなくてはならない。そのためには情報が必要である。患者が「大変なことになりました!」と深刻な顔で治療者に伝えたとする。その時点では治療者には「何か深刻なことが起きた、大変だ」ということしかわからない。漠然とした不定形の黒い塊を投げかけられたようなものである。それに対して質問を投げかけることでその黒い塊が徐々に形を表していく。それを把握したことを伝えることで、クライエントの側は理解されたという感覚をより確かのものにしていくのである。その意味では質問は「明確化」のためであり、それは患者の体験の理解とそれに向けての共感を深めるために、そしてそれのみのために行われるのである。
 ちなみに治療者が自分を理解してくれようとして投げかけてくる質問は、おおむね患者にとっては侵入的には体験されないものである。もしそれが不躾で侵害的であり、そのことを患者が暗に伝えるのであれば、もちろん治療者はそれ以上その件について問いかけることは控えるべきであろう。しかし相手を理解するという目的のために投げかけられた質問である限りは、治療者はその質問をしたことを後悔する必要はないのである。
 ところでここでの「クライエントの理解してもらいたいという気持ちにこたえる」という主張は、いわゆる支持的な療法の考えにある程度は沿っているものの、伝統的な分析的精神療法とも認知療法ともはなじまないと考える方もいるかもしれない。たしかにそれはクライエントの洞察を深めようとか、その思考プロセスを考え直そうといった考え方とは、大きく異なるように見えるだろう。しかしそれらと全く相入れないというわけではない。むしろクライエントが「理解された」と思えることは、それらの治療の出発点として考えるべきである。クライエントが人生の中で似たような問題を他者との間で繰り返し起こしたり、不適応的な考えを持ったり不用意な行動を起こしてしまうということが生じている場合、その際の当惑やいら立ち、不条理さや不全感を含めて面接者が理解することは治療の成立する前提条件とさえ言える。そこで「(そのような状況であれば)そう感じるのも無理はありませんね。」という気持ちを面接者が持つ事が出来、それをクライエントに伝えることなしには、クライエントがそこから抜け出すことを援助することなどできるはずはないのだ。 
 ただし、と、ここで付け加えなくてはならない。人を理解することは難しい。否、面接者がクライエントを理解したと感じることはやさしくても、クライエント自身が理解された、と感じるような仕方で理解することは時として非常に困難なことである。とくに発達障害やパーソナリティ障害をともなうクライエントの場合、彼らの考えは私たちの理解しようという努力をすり抜けていくことがよくある。それはいくらダイヤルを微調整してもとらえることのできない周波数のラジオ放送のようなものである。クライエントの持っている「理解されたい」という希求は、実はそれが完全な形で実現することは決してありえないことでもあるのだ。そしてそれに直面することを助けることもまた、心理療法の一つの重要な役割なのかもしれない。
 その意味では心理療法に携わる人たちにとってはさまざまな精神疾患についてそれらに馴染み深くなり、クライエントの持つさまざまな障害に対する深い理解を示すことができるようになることは大切なのだ。さらにはクライエントが人生上体験するさまざまな問題、たとえば離婚、別離、事業の失敗、破産、受験の失敗・・・などの体験を直接間接に持つことで、臨床家のクライエントを理解する力は深まる。ただし、それらの体験により臨床家自身が疲弊してしまわなければ、の話ではあるが。 
 ところでこの「理解してもらうこと」というテーマは、患者の持つ孤独感の問題に行きつくことがわかる。自分の問題を理解してもらうことは、それまで誰にもわかってもらえずにひとりで人生を生きてきたクライエントの孤独感を和らげるという意味があるのだ。このように考えると理解される事を望まない人はいない、という意味はより明確になるだろう。それは人は深刻な孤独に耐えることはできない、ということだ。本来人は孤独を嫌うし、それを苦痛に感じるものなのである。孤独が好きだという人の場合には、それまで自分を理解し、愛してくれた存在の内的イメージが豊富なので、現実の友人やパートナーを持たないということがそれほど響かないというわけだろう。それらの内的イメージを持てるほどに幸運でない人たちは、それだけ孤独に耐えることができなくなる。
 ちなみに「シャドー問診」の件である。人の話を聞くときには、一定の手順がある。ある興味深いエピソードを聞かされたとき、私たちはその輪郭を探り、必要な情報を得ようとするものだ。たとえばニュースで人質事件が伝えられると、「いつおきたのか?」「どこで起きたのか?」「誰が巻き込まれたのか?」「どの程度深刻なのか?」「原因は何なのか?」と問いただす。いわゆる「5W1H」である。それらのうち一つでも欠けているといまひとつ分かっていないという感じが残る。私たちの認知のシステムはこれらの基本的な情報を得ることで、その出来事を一つの輪郭、を持った立体的なものとして、ゲシュタルトとして脳に刻み付けたいのだ。
 クライエントの話を聴く私たちも実は同じである。治療者の「クライエントを理解する」ことは、これらの情報から一つのゲシュタルトを頭の中に構成することなのだ。ところが話のある細部に入り込み、そこでの話に深く印象付けられると、そこだけで分かったつもりになる。しかし全体像がつかめていない。クライエントの話の細部、たとえばある印象的なエピソードに圧倒されて、年齢や職業や家族構成さえ聞かずに面接を終えてしまうことにもなりかねない。面接者がプロフェッショナルとして話を聞き、その全体像を同僚に伝えたり記録に残したりする立場にある以上、得るべき情報の基本的な項目がいくつかあり、それぞれの詳細にはおそらく限りがない。クライエントの体験を聞いていき、頭の中にゲシュタルトを作り上げ、分かったと思えるまで問いかけるのが、治療者の役目である。クライエントを前にした治療者の頭には、得るべき情報のための質問項目が頭の中にリストアップされているべきなのである。私が「治療者は頭が真っ白になっている暇はない」と言った時は、その事情をさしているのである。
 質問の順番や項目には、実はフォーマットがあり、それは一種のテンプレートのようなものと考えることができる。5W1Hのようなものがはめ込まれた書式のようなものだ。質問とは結局はそのボードにすべての要素を組み込むようなところがある。それが頭に入っている限り、「何を聞いていいか分からない」ということはないのだ。もしすべての項目を埋め尽くしたののであれば-もちろんそのようなことは滅多に起きないのであるが-そこでようやく本来の仕事をすることができる。「これまでお聞きしたことを私なりに理解した分をお伝えして良いですか? もし違っているところがあれば直してくださいね。」それからの時間は、治療者にはどのようにクライエントの話が理解されたのかをフィードバックするという、お互いにとって一番意味のある時間を構成するのである。
それを行うための一つの練習として、以下のような「シャドー問診」を考えることができるだろう。頭の中によく知っている人物を浮かべる。兄弟でも親友でもいい。そして彼()に関するテンプレートを頭に用意し、埋めるべく質問をしてみる。そのテンプレートはどこの相談室にでもあるような問診票から持ってくればいい。もちろん問いの内答えを知らない部分は自分の想像で補うのである。質問が途切れることなく、そのテンプレートのすべての項目が埋め尽くされるまで途切れることなく質問をすることができるようになったとき、あなたは患者さんの前でパニックになる可能性は半減する。この種の練習は、ロールプレイの相手がいれば、それこそシャドーではなく、よりリアルな状況で練習できていいだろう。そうでなくては、初診の治療者の最初の何人かのクライエントは、それこそ練習台ということになってしまう。それもあまり勧められることではない気がする。