2015年9月21日月曜日

治療の終結 推敲 1

臨床はドロップアウト体験から始まる

そもそも治療はなぜ終了するのか。その答え自体はシンプルである。クライエントの側に治療に来るだけの動機付けがもはやなくなるからである。それが目標をある程度達成した上で、しかるべき手順を踏む形で生じれば、それは終結と呼ばれる。それがクライエントの側から一方的にもたらされる場合には、中断ということになる。ただし私には「ドロップアウト」という表現の方がなじみがある。「ドロップアウト」はする側にもされるに側も、失敗、望ましくない形で生じたこと、というニュアンスを与える。治療者の側には、一度は担当することになったはずのケースが手からすり抜ける(「ドロップ」する)無念さという印象を伝える。場合によっては胸が痛み、トラウマにさえなる「ドロップアウト」の体験は、実は初心の治療者が経験を積む上での出発点でもあるのだ。
ところで、そもそもケースがドロップすることなく、きちんとした終結が迎えられるケースは、どの程度存在するのだろうか? もちろん治療者により異なるであろうが、米国の少し古いメタアナリシスは心理療法のドロップアウト率として47%という数字を伝える(Wierzbicki, Gene, 1993)。とするとビギナーの場合には、ドロップアウトの末に三分の一残れば上出来ではないか。

A meta-analysis of psychotherapy dropout.
By Wierzbicki, M, Pekarik, G: Professional Psychology: Research and Practice, Vol 24(2), May 1993, 190-195.
Abstract (A meta-analysis was conducted of 125 studies on psychotherapy dropout. Mean dropout rate was 46.86%. 

Swift, JK.; Greenberg, RP.Premature discontinuation in adult psychotherapy: A meta-analysis.
Journal of Consulting and Clinical Psychology, Vol 80(4), Aug 2012, 547-559.http://dx.doi.org/10.1037/a0028226

最近の研究はドロップアウト率として20%前後という少し安心する数字を挙げている(Swift, Roger, 2012が、臨床現場にいると、心理療法の初回面接に訪れた人の半分以上は、やはりドロップアウトしてしまうという印象を持つ。特にほかの臨床家から紹介されたのではなく、広告などを見て直接カウンセリングを求めてやってきた人のドロップアウトはかなり高率で生じる。「カウンセリングとはこういうものだろう」と想像していたものと実際とがあまりにかけ離れている可能性があるからだ。
 ドロップアウトが一番起きやすいのが初回面接の後であろう。場合によっては治療者と対面してものの5分も経たないうちに、クライエント側はもう二度と来ないことを決めている。「想像していたのと全く違っていた・・・。」しかしそれを少しも口にせず、最後まで面接の場に居続け、多くの場合は次回の約束まできちんとしておいて、そしてその「次回」に・・・訪れないのである。
初回面接を乗り越えたクライエントに次に訪れるドロップアウトの危機は、治療が始まって23か月後の、ラポールが出来かけたころである。それは予定していたセッションの何度かのキャンセルの後に起きるというパターンを取りやすい。まず第一回目は、「風邪をひいた」などの特定の理由でキャンセルの電話が入る。これ自体はどの治療関係に起きることであり、治療者は特に気に留めないだろう。ところが次の週は理由もなく、ただキャンセルの連絡のみが受付に入る。治療者はある覚悟を決め始めなくてはならない。そしていよいよ3回目は無断キャンセル。何の連絡もなく、ただいつもの時間になっても現れない。そしてその後は連絡にも応じなくなる。
 この種のドロップアウトの場合、それが生じる以前には、治療をやめるような話はクライエントからは具体的には出ないのがふつうである。少なくとも治療者の側は今後も治療が続いていくつもりでいる。しかし患者の側では、動機づけがすでにかなり減ってきている。ただ治療者に対して申し訳ない、などの理由でそれをセッション中に言い出せない。そして最初は風邪を理由にキャンセルするが、少し胸が痛む。二回目のキャンセルでクライエントは、もう治療を続けたくないという暗黙のメッセージを、治療者に読んで心の準備をしてほしいと願う。最後の無断キャンセルは明らかな意思表示であり、それを行う側のクライエントにもそれなりの勇気と覚悟がいる。
 このような場合、治療者の側はドロップアウトの「理由」を知りたがるが、通常それは明かされない。クライエント自身も明確な理由を特定できない場合が多いが、時には治療過程で生じたある出来事がきっかけとなり、ドロップアウトにいたることもある。治療者の側の過剰なうなずきへの不信感。治療者の不用意なひとことやふと出たため息。あるいは治療者の見せた謎の涙。治療者が沈黙し、クライエントが自分だけ話をさせられている感じ、などなど。多くは治療者側にはそれがドロップアウトにいたったという自覚はない。同じ治療者の共感の涙がラポールの強化に貢献することもあることを考えると、このドロップアウトは不可避的な運命のようなものしかいえない場合も少なくない。結局は両者に出会いがなかったとしか言いようがないのだ。
ケースのドロップアウトは、これほど初心のセラピストにとって自己愛を傷つけることはない。私はスーパーバイジーや学生に対しても、ドロップアウトが生じそうになっていたら、それがわかった時点でとにかく一度はクライエントに来てもらい、率直にその経緯について話し合うことを勧めるし、また自分自身でもそうしているつもりである。しかしそれでもよほど治療者の側に心の余裕がない限り、この件をクライエントと冷静に話し合うことは難しい。それにクライエントの側はすでにもう治療を継続しないことを決めている場合が多いのだ。「もうこないと決めている以上、何を話すことがあるのか?」というクライエント側の事情もまた十分納得できるものだ。結局この「最後の話し合い」でクライエントが治療の中断を撤回する可能性は半分にもはるかに満たないのではないだろうか。
これを書いていると、私は初心の頃クライエントにドロップされた記憶のいくつかがよみがえる。20年以上前、米国の精神科のトレーニングで、精神療法の臨床実習があった。週一度のセッションに通ってくるケースをいくつか持たない限り、トレーニングが先に進まず、卒業さえ危ぶまれる。ところがつたない英語を話す自信なさげな外国人レジデント(私のことである)のところに来てくれるクライエントがなかなか見つからない。それでも「このケースこそは」と思えるクライエントと巡り合う。その人との何回目かの約束の時間が迫ってくる。時計とにらめっこをする。定刻になっても現れない。5分経過。まだ現れるかもしれない。10分。もう無理か。やっぱり自分はセラピストとして選んでもらえなかった・・・。こうして失望が心に広がっていく。第二回目からいきなりドロップアウトなら、まだ救われるというところがある。「もともと縁がなかったんだ…」しかし数セッションが経過し、そろそろラポールが出来始めていると感じ、自分のケースとしてカウントし始めるころになると、そこで突然クライエントが現れなくなった時には、自尊心がズタズタにされる思いがあった。
心理療法の場数をこなし、ケースの中断という事態をある程度客観視できるようになると、また反応も違ってくるものだ。しかし治療者にとってイニシャルに近いケースだと、ケースに関して起きる不都合なことはすべて、自分に責任があると考えてしまう。しかも「何が悪かったのか?」の決め手が通常は得られない。クライエントはその理由をわざわざ説明しに来てはくれないからだ。(上にあげた例はどれも、主治医の私が治療者に紹介したクライエントたちがドロップアウトした後に語ってくれた内容である。)すると、何もかも、すべて自分が悪かったのだ、ということになる。初心の治療者は、こうしてますます自信を失っていく。
 私はそのような「手負い」の治療者が救われる唯一の方法は、自分を選んでくれる患者の登場であると思う。そう、クライエントのドロップアウトによる傷心の治療者救い出し、育て上げてくれるのもまた、クライエントの存在なのである。おそらく心優しく、時には厳しいスーパーバイザーの存在よりも。逆に言えば、そのようなクライエントにいつまでたっても出会えないとしたら、その治療者は仕事を変えることを真剣に考えなくてはならないだろう。

心理療法家がこのドロップアウトとそれからの立ち直りをその生業の初めに体験することの意味は大きい。それはある重要な現実の体験である。クライエントは支払うお金と費やす時間に見合ったものを受け取ることができないセッションには来ない、ということだ。クライエントは偽らないし、そこには遠慮も気遣いもない(あったとしても、通常の社交上働くそれらに比較すればかなり少ない)。心理療法は実力社会であり、クライエントはこちらの力量を推し量り、来る価値がないと判断したセッションには現れないのである。これほど正直なフィードバックはあるだろうか?心理療法家はそのような厳しい体験を通して、自分の仕事を確立していくのである。