3.仮の治療目標を「クライエントの孤独感を和らげること」と設定してもいい
すでに述べたことだが、心理療法は海図のない航海のようなものであり、治療者は自分が一体何をやろうとしているのか、やるべきなのかがわからなくなることがまれではない。特に初心の治療者に言えることだが、彼らは治療中に「治療者として何もしていない」気がすることに後ろめたさや疚しさを覚える。「自分はクライエントに何の役にも立っていないのではないか?」事実クライエントは一年以上前から通い続けているが、彼の生活環境が大きく変わったとも考えられない。症状についても大して変化がない。それでもクライエントは予約時間にいつものように現れる・・・・。自分はひょっとしたらクライエントを欺いているのではないか、何か不正な行為をしているのではないか?
「来る人は拒まず、去る人は追わず」という言葉がある。私たちは「来る」クライエントの話を聞くわけであるが、もちろん彼らの中には非常に治療目標がはっきりしていて、毎回のセッションで具体的な成果を持ち帰る人もいる。しかしとりとめもない生活上の話をして帰っていく人もたくさんいる。それらの人たちとの間でおそらく達成されていることを次のように考え、またそれを隠れた治療目標として設定することができるだろう。それは「クライエントの孤独感を癒す」ということである。
「クライエントのコドクカンだって?そんなものを扱うためにわれわれは心理療法をしているんですか?」という人もいるかもしれない。そう言いたい気持もよくわかる。精神分析的な療法家にとっては、聞くだけでもがっかりする話かもしれない。しかし私たちが扱っているのは、ごく普通の生身の人間、つまり私たち自身である。その人生の大半が、自分の孤独感から逃れるための活動だったりするのだ。
もちろん逆に孤独に逃げ込みたくなる人もいるかもしれない。日常の仕事や学校生活における人間関係に疲れて、それらから一時的にでも退避したくなる人たちだ。しかし彼らでさえ週末になれば、長期の休みになれば、あるいは長期間独身生活を続けていれば、配偶者が長い里帰りや単身赴任をしてしまえば、あるいは孤独な老後を迎えたならば、心のどこかに空虚さを感じ、それを埋めることを真剣に試みるものである。
さらに私たちの孤独感は、見かけ上は孤独ではないような状況でも体験されるから厄介である。人生の岐路に立たされて深刻に迷い苦しんでいるとき、それを聞いてくれるはずの配偶者や主治医の無理解を痛感した場合、最悪な孤独感が襲ってくるかもしれない。「一緒にいるのに孤独」。無理解で別の世界にいるような配偶者といると、一人でいるよりもっと孤独に感じる、という人は多い。
あるクライエントは職場で深刻なモラルハラスメントを体験したそうである。そしてそれをうちに帰って夫に話すと、彼はこう言ったという。「そう、よかったじゃない。キミはこれまであまりそういうつらい体験をしたことがなかったんだから。いい人生勉強だよ。」その体験がそのクライエントにとって結果的に人生勉強になったかは別として、少なくとも彼女は夫の言葉によって深刻な孤独感に教われたことは確かだったのである。
そしてそのような人たちにとっては理解を示してくれる面接者の存在は、この苦しみの一部を癒してくれる可能性があるのである。
患者の持つ孤独感については、「自然流精神療法入門」(星和書店、2003年)でもある程度紙数を割いて述べたことであるが、ここでも少し繰り返しておこう。人生の上である種の問題に直面することで味わう苦痛のかなりの部分は、実は孤独感に関係していることが多い。それはその問題の特殊性、それを体験した人の気持ちをわかってもらえないままで過ごすことの孤独である。その時もし目の前の誰かが聞いて、「それは大変ですね」と伝えたとしよう。すでにその孤独感の一部は癒されている。理解されることはもう一人の自分を作ることになり、それが私たちを孤独から多少なりとも救ってくれるのである。孤独とは、常に誰かに付き添ってもらうことで和らぐとは限らない。週に一度しか会わない面接者との間でそれが癒されることもあるのだ。
もちろんその人はあなたの問題を本当の意味でわかってくれているとは限らない。「どうしてそんなことで悩むの?」と言われてしまうかもしれないし、その人はもしかしたら腹の底であなたの不幸を嗤っていないとも限らない。だから人に話すことは難しいのであるが、それでも私たちは心に悩みを抱えた場合に人に話すことを選ぶことが多い。時にはペットの犬に向かってさえ私たちは話しかける。「今日ね、ひどいことをお客さんに言われたんだよ。どうしてお客ってあんなに上から目線で店員に文句を言うんだろうね?」それを言われた犬はもちろんわけがわからないが、一生懸命ご主人様の気持ちを読もうとその目を見つめる。それでも少しは気持ちが和むだろう。少なくとも一人ではないから(一人と一匹・・・)。
このように考えると私たちがなぜ感動を思わず言葉にする傾向があるのか、時には独り言にしてまで気持ちを表現するかが理解できる。楽しいことがあった時はそれを話す相手がいない時に、つらいことがあったときはそれを理解してくれる人がいない時に、私たちは孤独を感じ、それを耐えがたく思うのだ。独り言でもいいからそれを想像上の誰かに伝えることで、その孤独感を和らげるのである。
面接者が毎週ないしは隔週クライエントと会うたびに、そのクライエントが少なくとも孤独感からは救われ、生きる勇気を少しだけ与えられて帰っていくとき、それを面接者が実感しない時があるとしたら、それはなぜだろうか?ひょっとしたら面接者が「幸福すぎる」からかもしれない。そんなことでも役に立っているということが信じられないのである。あるいはクライエントの苦しみのレベルに波長を合わせることができていないのかもしれない。それでも面接者は結果としてそれなりに役に立つことができる場合があるとすれば、そのことはおそらく感謝すべきことなのかもしれない。
最後にただし書きである。人の孤独感は時々癒されることはあっても、完全にそれが消え去ることはない。面接者がクライエントをその孤独から救うということは永遠にできるわけではない。面接者にできることは、クライエントが自らの孤独感を抱えることを援助することでしかないだろう。
面接者も孤独を抱える人間である以上、心理療法はともに孤独を抱える人間同士が支えあう営みというニュアンスさえある。もちろん面接者が自らの孤独をいやすために面接を用いることには倫理的に問題が生じかねない。しかし現実には臨床が孤独をいやす一つの重要な手段となっているような臨床家も決して少なくないのである。
「来る人は拒まず、去る人は追わず」という言葉がある。私たちは「来る」クライエントの話を聞くわけであるが、もちろん彼らの中には非常に治療目標がはっきりしていて、毎回のセッションで具体的な成果を持ち帰る人もいる。しかしとりとめもない生活上の話をして帰っていく人もたくさんいる。それらの人たちとの間でおそらく達成されていることを次のように考え、またそれを隠れた治療目標として設定することができるだろう。それは「クライエントの孤独感を癒す」ということである。
「クライエントのコドクカンだって?そんなものを扱うためにわれわれは心理療法をしているんですか?」という人もいるかもしれない。そう言いたい気持もよくわかる。精神分析的な療法家にとっては、聞くだけでもがっかりする話かもしれない。しかし私たちが扱っているのは、ごく普通の生身の人間、つまり私たち自身である。その人生の大半が、自分の孤独感から逃れるための活動だったりするのだ。
もちろん逆に孤独に逃げ込みたくなる人もいるかもしれない。日常の仕事や学校生活における人間関係に疲れて、それらから一時的にでも退避したくなる人たちだ。しかし彼らでさえ週末になれば、長期の休みになれば、あるいは長期間独身生活を続けていれば、配偶者が長い里帰りや単身赴任をしてしまえば、あるいは孤独な老後を迎えたならば、心のどこかに空虚さを感じ、それを埋めることを真剣に試みるものである。
さらに私たちの孤独感は、見かけ上は孤独ではないような状況でも体験されるから厄介である。人生の岐路に立たされて深刻に迷い苦しんでいるとき、それを聞いてくれるはずの配偶者や主治医の無理解を痛感した場合、最悪な孤独感が襲ってくるかもしれない。「一緒にいるのに孤独」。無理解で別の世界にいるような配偶者といると、一人でいるよりもっと孤独に感じる、という人は多い。
あるクライエントは職場で深刻なモラルハラスメントを体験したそうである。そしてそれをうちに帰って夫に話すと、彼はこう言ったという。「そう、よかったじゃない。キミはこれまであまりそういうつらい体験をしたことがなかったんだから。いい人生勉強だよ。」その体験がそのクライエントにとって結果的に人生勉強になったかは別として、少なくとも彼女は夫の言葉によって深刻な孤独感に教われたことは確かだったのである。
そしてそのような人たちにとっては理解を示してくれる面接者の存在は、この苦しみの一部を癒してくれる可能性があるのである。
患者の持つ孤独感については、「自然流精神療法入門」(星和書店、2003年)でもある程度紙数を割いて述べたことであるが、ここでも少し繰り返しておこう。人生の上である種の問題に直面することで味わう苦痛のかなりの部分は、実は孤独感に関係していることが多い。それはその問題の特殊性、それを体験した人の気持ちをわかってもらえないままで過ごすことの孤独である。その時もし目の前の誰かが聞いて、「それは大変ですね」と伝えたとしよう。すでにその孤独感の一部は癒されている。理解されることはもう一人の自分を作ることになり、それが私たちを孤独から多少なりとも救ってくれるのである。孤独とは、常に誰かに付き添ってもらうことで和らぐとは限らない。週に一度しか会わない面接者との間でそれが癒されることもあるのだ。
もちろんその人はあなたの問題を本当の意味でわかってくれているとは限らない。「どうしてそんなことで悩むの?」と言われてしまうかもしれないし、その人はもしかしたら腹の底であなたの不幸を嗤っていないとも限らない。だから人に話すことは難しいのであるが、それでも私たちは心に悩みを抱えた場合に人に話すことを選ぶことが多い。時にはペットの犬に向かってさえ私たちは話しかける。「今日ね、ひどいことをお客さんに言われたんだよ。どうしてお客ってあんなに上から目線で店員に文句を言うんだろうね?」それを言われた犬はもちろんわけがわからないが、一生懸命ご主人様の気持ちを読もうとその目を見つめる。それでも少しは気持ちが和むだろう。少なくとも一人ではないから(一人と一匹・・・)。
このように考えると私たちがなぜ感動を思わず言葉にする傾向があるのか、時には独り言にしてまで気持ちを表現するかが理解できる。楽しいことがあった時はそれを話す相手がいない時に、つらいことがあったときはそれを理解してくれる人がいない時に、私たちは孤独を感じ、それを耐えがたく思うのだ。独り言でもいいからそれを想像上の誰かに伝えることで、その孤独感を和らげるのである。
面接者が毎週ないしは隔週クライエントと会うたびに、そのクライエントが少なくとも孤独感からは救われ、生きる勇気を少しだけ与えられて帰っていくとき、それを面接者が実感しない時があるとしたら、それはなぜだろうか?ひょっとしたら面接者が「幸福すぎる」からかもしれない。そんなことでも役に立っているということが信じられないのである。あるいはクライエントの苦しみのレベルに波長を合わせることができていないのかもしれない。それでも面接者は結果としてそれなりに役に立つことができる場合があるとすれば、そのことはおそらく感謝すべきことなのかもしれない。
最後にただし書きである。人の孤独感は時々癒されることはあっても、完全にそれが消え去ることはない。面接者がクライエントをその孤独から救うということは永遠にできるわけではない。面接者にできることは、クライエントが自らの孤独感を抱えることを援助することでしかないだろう。
面接者も孤独を抱える人間である以上、心理療法はともに孤独を抱える人間同士が支えあう営みというニュアンスさえある。もちろん面接者が自らの孤独をいやすために面接を用いることには倫理的に問題が生じかねない。しかし現実には臨床が孤独をいやす一つの重要な手段となっているような臨床家も決して少なくないのである。
事例)
34歳の母親、一才10ヶ月の女児を持つ。乳腺外来の医師に進められて精神科を受診する。最初は笑みさえ浮かべていた彼女は、これまでの経緯をたずねられて、一年前の体験から話し出す。ある娘の日授乳時に右の乳房の一円玉大のしこりに気がつく。痛みもないのでそのうち医者を受診しようとしている間に、それが見る見る大きくなっていることに危機感を持ち、専門の乳腺外来を受診する。そこで彼女はそれが非常に悪性の乳がんであることを告げられた。それはホルモンを餌にして見る見る大きくなる種類のがんだったのである。そして現在では骨転移が全身に見られ、腫瘍マーカーが不気味な上昇を見せていることに話が及び、それまで気丈に話し続けていた彼女の表情に影が差す。そして話がまだ幼い娘に及ぶ。
「私の命はどうでもいいんです。でも娘が・・・やっと言葉を覚え始めた娘が『ママー』と言ってくるたびに、この子の成長を見守ることができないと思うと・・・」と言ったきり涙があふれて言葉がつまる。
聞いている精神科医はその話に圧倒されてまともに口もきけない。悲しみにくれる母親は自分の苦しみを話した相手が圧倒されてしまうのを見て、いつもの孤独を感じる。専門家でさえその辛さにおしつぶされる体験を持っているのだ。圧倒されかけている精神科医はそれでも思案し、再発乳がん患者の自助グループを探し出して紹介する。
そして若い母親はその会にはじめて参加する機会を持つ。その毎週の会が持たれる会場におずおずと入り、自分と同じ境遇にある母親たちの暖かなまなざしに触れたときの救われた感じ、一瞬ではあれ癒される孤独感・・・・。
34歳の母親、一才10ヶ月の女児を持つ。乳腺外来の医師に進められて精神科を受診する。最初は笑みさえ浮かべていた彼女は、これまでの経緯をたずねられて、一年前の体験から話し出す。ある娘の日授乳時に右の乳房の一円玉大のしこりに気がつく。痛みもないのでそのうち医者を受診しようとしている間に、それが見る見る大きくなっていることに危機感を持ち、専門の乳腺外来を受診する。そこで彼女はそれが非常に悪性の乳がんであることを告げられた。それはホルモンを餌にして見る見る大きくなる種類のがんだったのである。そして現在では骨転移が全身に見られ、腫瘍マーカーが不気味な上昇を見せていることに話が及び、それまで気丈に話し続けていた彼女の表情に影が差す。そして話がまだ幼い娘に及ぶ。
「私の命はどうでもいいんです。でも娘が・・・やっと言葉を覚え始めた娘が『ママー』と言ってくるたびに、この子の成長を見守ることができないと思うと・・・」と言ったきり涙があふれて言葉がつまる。
聞いている精神科医はその話に圧倒されてまともに口もきけない。悲しみにくれる母親は自分の苦しみを話した相手が圧倒されてしまうのを見て、いつもの孤独を感じる。専門家でさえその辛さにおしつぶされる体験を持っているのだ。圧倒されかけている精神科医はそれでも思案し、再発乳がん患者の自助グループを探し出して紹介する。
そして若い母親はその会にはじめて参加する機会を持つ。その毎週の会が持たれる会場におずおずと入り、自分と同じ境遇にある母親たちの暖かなまなざしに触れたときの救われた感じ、一瞬ではあれ癒される孤独感・・・・。