2015年8月1日土曜日

自己愛(ナル)な人(50/100)

高知能なナルとアスペルガー傾向
ところでここまで書くと、高知能のナルな人々と、アスペルガー障害には重複があるのではないかとお考えになるかもしれない。確かに高知能の方にはアスペルガー傾向が高い方も当然いらっしゃる。(何か急に丁寧語になっているなあ。具体的な人々の顔が見え隠れしているからかもしれない。)ちなみにこれは、高知能の人はアスペルガーに「なりやすい」、というような話ではない。アスペルガーは一応発達障害(最近の言葉では「神経発達障害」)であり、生まれつき脳に備わった癖、その性能の偏りのようなものである。この高知能とアスペルガーの関係に関して、アバウトな言い方をしてみれば次のようになる。
 アスペルガー障害は他者との情動的なかかわりに十分な大脳皮質を割いてない可能性がある。そしてその分「余っている」皮質を与えられることで、その分だけある能力が、ほかの知的能力より優れている可能性がある。大脳皮質が一種の棲み分けのような現象を呈することは、サバン症候群の例を見ればわかる。また同様に生まれつき視覚障害を持つ人の中に超人的な音楽的ないし芸術的な才能を発揮する場合、視覚に通常使われるべき大脳皮質がほかの事に使われている事情が考えられるのだ。
 アスペルガー障害には、興味関心の特異性、常同性、つまり「オタク傾向」が見られることが多い(というより定義の一部になっている)が、これは以上の事情に関連する。後はその興味関心が、どの程度学問的なレベルの高さに至るかどうかは、その人の知的能力に大きく左右される。比較的質の高い、より広い皮質野を与えられた場合、それは例えば数学や物理学の才能、芸術的な才能として花開くであろう。それほどでなければ、「~博士」「~マニア」と言われるような、特定のテーマに非常に詳しい人たちになる。そしてアスペルガー傾向があっても、十分な皮質という恩恵に浴さない場合人の場合には、生産性のない、ステレオタイプ的な行動とか著しい好みの偏向にとどまる可能性がある。
 私はアスペルガー傾向のある人に、その人のオタク傾向やこだわりを見出すと少しホッとする。常々思うのだが、オタクであるためには一定の知的能力はどうしても必要なのだ。別の言い方をすれば、オタクであり、~博士であることは、その人の知的レベルをある程度補償してくれているということになるのだ。アスペルガー傾向があり、知的な能力に限界があるということは、それだけハンディキャップとなる可能性がある。
少し話が回りくどくなったが、高知能であり、それにより自己愛的な傾向に陥っている場合、そこに多少なりともアスペルガー傾向が介在している可能性が高いという主張をしたかったのである。先にも述べたが、本当の意味で知能が高ければ、自らの知能を自らの、そして社会のために用いることにもその知的能力を向けられるべきであろう。