2015年7月30日木曜日

自己愛(ナル)な人(48/100)

 ニホンザルはナルシストか?(雑談)
ここでふと思いついた。確か山極寿一先生の本にあった。ニホンザルは互いに視線が合うと、挑戦と取り、まずは威嚇してくるという。彼らにとっては、対人(対猿?)関係は、自分の方が偉い、という前提から出発する。いわばブラフをお互いに仕掛けることになる。こちらが目を伏せたり弱気な態度を取ったりすると、相手は早速攻撃してくるという。したがってわれわれ人間がサルと出会っても、まず目を合わせないこと、そもそもの出会いを避けるわけだ。そして目が合ってしまったら、今度は急にそらしたりはしないこと。それは敗北を認めることで、それをきっかけに相手が攻撃してくるかもしれないというのだ。
 ちなみにこの視線の意味が、たとえばゴリラの視線などと全く異なるということを山極先生が書いていらした。ゴリラの場合は、その視線はむしろ人間のそれに近く、さまざまなメッセージを含みうる、というのだ。そこでゴリラの視線について調べていくうちに面白い記事に出会った。(http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d6a46f1d4c474ff9a37136fe52b9eec5
オーストラリアのある動物園で、ゴリラに人が襲われるということが起きて、それから特殊なメガネをつけることになったという。そのメガネには、レンズの部分に目が描かれてあり、ただしその黒目が横を向いているために、ゴリラは、そのメガネをかけた目で見られても、自分が見られていると感じないという。要するにやくざで言う「ガン付け」防止メガネというわけだ。(面白いだろうな。繁華街などでやくざに狙われないように、人々が皆横眼を描いたメガネをかけているとしたら。私は若い頃「ガンを付けただろう」と言われてすごく怖い目にあった体験があるだけに、すごく興味深い。)ともかくもニホンザルだけでなく、ゴリラでも結局ガン付けが意味を持つ。そこでは相手を弱い立場であるという前提でかかわりを始める。この話を思い出したのは、何か中国人的なかかわりと似ている気がするからだ。相手を威圧し、プレッシャーをかけるというところから出発するところが似ているのだ。ボクシングでも試合の前日の計量の際に対戦相手が睨み合い、威嚇しあうのが定番になっている。亀田兄弟の場合は極端だったな。俺ほど強い人間はいない、という表情、態度をぶつけ合うことが、お決まりになっているわけだ。
 そこで考える。ニホンザルは、ヤクザは、ボクサーたちは自己愛的なのだろうか? やはり中国という国について考えたのと似たような議論になる。彼らにとってはそのような態度がお決まりになっている。それは彼らの社会におけるルールのようなものだ。そしてそのルールに従っている際には、互いに相手を自己愛的とは感じないのかもしれない。単に互いに持っている実力を照合しあう、嗅ぎ分けるといったニュアンスしか持たない可能性がある。ナルシシズムを考える時、その人の持つ特性、性格傾向ということを前提としている。その議論は社会のルールとして力を示し合うような人々、動物などにはどうもなじまないのである。
 高知能なナルシシスト
 高い知能を備えていることと、学校の成績がいい、高学歴である、ということは必ずしも一致しない。本来は高い知能を備えるということは、それだけ物事を理解する力があり、自分の振る舞いや他者との関係性に対する自覚が優れ、それだけ余計な人との葛藤や軋轢を避け、より賢く振る舞うことが期待される。つまり彼の知能は自分や他人の幸福をそれだけ増すことに貢献するはずだ。
ところが実際にそうではない場合が多い。高い知能を備えているということがその人の自己愛を高め、他人を見下し、傲慢な振る舞いを生むということがある。それはなぜだろうか?
まず学校の成績の優秀さがその人を自己愛的にするということはありうる。もちろん学校の成績と知能の高さは必ずしも一致しないが、かなりの相関はある。
 皆さんも小学校中学校の頃を思い出されるといい。クラスで特別扱いされる存在であるためには、いくつかの要旨があったはずである。一つは運動神経の良さ。運動会や体育の時間に抜群の能力を発揮する子は大概、クラスの人気者だったはずだ。そしてもう一つは成績の良さ。小学校の低学年の頃はそれほど重要ではなった「成績」は、やがて受験をする年代が近付くにつれて大きな意味を持ってくる。大概どこの学校にも、運動神経もよく、成績もそこそこ優秀という子がいて、クラスの花形だったりするものだ。しかし運動はダメでも成績抜群という子も中に入る。それまではクラスでも全然目立たなかった子が、小学校の高学年になり、急に大人びて、クラスで指された時に使う言葉も洗練され、成績も優秀で旧に一目置かれたりするようになる。
その成績優秀な子は、おそらく多少なりともそれを意識し、鼻にかけることはあったかもしれない。自己愛的な言動や振る舞いも出てくるだろう。しかしそれはやむを得ないことだ。成績優秀な子は担任の先生にとってもとてもありがたい存在だ。学年でトップの子がクラスから出ると、担任の先生もまんざらな気分ではないはずである。自然とその生徒を見る目や扱い方が違ってくる。そしてその子の自己愛は増していく。その子は学校という環境で、特に受験に力を注いでいる場合には、成績という二文字がいかに難しい扉をこじ開けてくれ、人からの羨望を集めるかということを学習する。運動が苦手、ということさえ成績が優秀ということでディスカウントされ、さほど自分にとって不利に働かないということも知るのだ。
 しかし成績の優秀さがそれほど人の自己愛に貢献しないのは、ごく単純な理由がある。上には上がいくらでもいるということだ。田舎の中学で断トツの成績を修め、都会の進学校の高校を受験して合格する。その中学始まって以来の快挙で、その生徒の両親も鼻が高い。
 しかし都会の進学高校には、結局そのような生徒が集まっているのである。それまでは学年で3番以下にはなったことがないという生徒が、初めての中間テストで、クラスで半分以下の成績を取り、驚愕する。それまでの天狗の鼻はへし折られ、茫然自失になる。それまで成績優秀ということで「勉強ができる」が唯一の誇りだった少年が、たちまちそれを奪われてどん底に叩き落される体験をする。
 彼はそれでもがんばって成績を向上させようとする。ある程度はそれも効果があるかもしれないが、同様のショックを受け、そこから立ち上がろうともがいている田舎の秀才はほかにもいくらでもいる。結局二度と優等生というアイデンティティを勝ち取ることが出来ずに、学校に通う意欲が失われ、クラスでのおかしな言動が見られ、そのうち幻聴が聞こえてきて、教室に姿を見せなくなった・・・・。そういうクラスメートのことを思い出す。

 結局「成績優秀者」のナルは、その大部分が自然淘汰される、ということはお分かりだろうか。そのような人たちが集まる進学校に進み、そこで平凡な生徒になってしまう、という道を歩む運命にあるからだ。そして最終的に最高学府であるA大学に入ったとしても、そこには一位からビリまでいることになる。留年する生徒もたくさんいるだろう。そうするとそれまでのプライドを維持できる人は上位のほんのわずか、ということになる。「成績優秀」なナルシシストというのは、だから案外存在しがたいのではないか?町の人にインタビューをする。「あなたは自分が成績優秀だとおもいますか?」おそらく9割の人は「そう思いません」と答えるのではないか?たとえA大学の学生でも。