2015年7月29日水曜日

自己愛(ナル)な人(47/100)

もう一つの可能性。私はこちらの方が信憑性があると思うのだが、中国は戦術として、自己愛的な態度をとっているのかもしれない。
実はこの議論を重ねていくと、中国人は、あるいは中国の国民は自己愛的なのか、という問いそのものに疑問が生じてくるのであるが、少し説明したい。中国は傲慢で強気で周囲を強引に服従させる・・・・。もしそれだけにとどまっているとしたら、中国の外交はどうして「成功」を収めているのだろうか? 
 私は「国際情勢音痴」だが、中国の外交がしたたかで、おそらく日本が考えるよりはるか先を見越しているであろうことがわかる。アジアに、アフリカに対する露骨な投資と経済支援による取り込み、米国に対するロビー活動。中国がコワモテなのは、それで言うことを聞く、あるいは歯牙にもかける必要がない相手だけという気がする。かの国は自分たちの自己愛的な接し方が自国に有利に働かない場合には柔軟にその姿勢を変え、友好的な顔を見せる。彼らの自己愛的で強気な態度や姿勢は、それが通用する限りにおいて用いられ、それが不利と分かると態度を一変させる可能性がある。そして実は中国人の気質に、そのように実利に難く、相手によって態度を変える性質が備わっているのである。
考えてもみよう。中国の人々が互いに仕事の交渉を行う場合に何が起きるのか。互いが自分たちの立場を譲らず相手を強引に丸め込むことだけを考えるだろうか?そのうちどこかで折り合いをつけ、譲歩をし合うことになるだろう。何らかの形で交渉を成立させることは、両者にとっての目的でもあるからだ。互いが強気なもの同士の戦いには、それなりの空気の読み合いがあり、妥協の仕方や落としどころの見つけ方がある。最初はブラフや無理な条件の吹っかけあいから始まっても、それが互いに見破られ、有効でないことがわかれば、当然戦術を変えるだろう。そうなると彼らの交渉も結構静かで秩序だったものになるのかもしれない。
ここで脱線であるが、私は空手の高段者の自由組手を見て興味深いと思うことがある。極真会などの壮絶なコンタクトを売りにする選手たちの決勝戦などを見ても、一見非常に退屈なのである。華麗な回し蹴りや突きが決まり、相手は吹っ飛ぶということがあまり起きず、一見退屈な技の掛け合いで時間が過ぎていく。華麗な技が決まるのは、まだ一回戦、二回戦の、選手同士の力の差が歴然としている場合に限られ、そこでは見事な見事な一発KOのシーンが見られる。
外交シーンで中国やアメリカを相手にして日本の代表が怯み、充分に国益を代弁できずに相手に押し切られるのは、日本がパワーポリティックスを苦手とし、というか、そもそも丸腰ということもあり(意味はお分かりであろう)相手に強気で迫ることが出来ないからであろう。そしてそのことを気取られたが最後、中国も米国も強気で押し切り、自分たちが有利のうちに交渉を終えようとする。こちらが弱腰である限りは、相手はとんでもなく自己愛的で強引に映るが、それはこちらが交渉に弱い、商売なら「言い値で買ってくれる」ということを知っているから、ということになるだろう。
中国はナルシシストか?再び問う
ということで結論にならない結論だが、改めて問い直してみると、次のような結論に至りそうである。中国という国はナルシシストに見える。おそらく中国という国民性に同様の性質を見ることが出来る。ただし中国人のナルシシズムは本書で論じてきたナルシシズムとは異質である。それは彼らの文化における対人関係の持ち方が「自分の利益を優先する」「そのために事実を歪曲することもありうる(犯罪にならない限り)」を前提としているために、日本文化のように外側から見て、自己愛的に見えるだけである。おそらく中国人自身は自己愛的という意識はなく「当たり前のこと」と思っているはずである。自分や周囲に意識されないような自己愛というのはあまり考えられないだろう。
以前に中国人のナルシシズムはサイコパス型ではないか、という疑問を呈した。上記の自己愛の在り方は、確かにそう見えるのである。しかしある集団のルールが、「皆が多少の嘘をつき、誇張することはお互い様だ」「役人には賄賂を与えるのが常識である」だったらどうだろうか?そこに真っ正直な人が称賛されるような国からやってきた人が放り込まれる。彼は周囲から所持品をむしり取られ、嘘をつかれ、たまたま通りがかったお巡りさんに助けを求めたら、その代わりに「金を出せ」、と言われる。瀕死の思いで自国に逃げ帰り、「あそこの国はみながサイコパスだった」というかもしれない。しかしその国の人からは、「どこからか全く無防備な男が現れ、カモにされた」と思われるだけかもしれない。
私はアメリカ生活しか経験していないが、都会を歩くときは、いつも鞄をぎゅっと握りしめていた。いつだれがひったくろうとしても、簡単には奪われないように。ニューヨークの地下鉄などでは、ちょっと居眠りするということが怖かったのを覚えている。私は周囲を泥棒の集団と見なしていたのかもしれない。しかしそこでも人は助け合い、冗談を言い合い、信頼関係を結ぶ。相手に何をされるかもしれないような社会に暮らしている、という覚悟を共有しているところを除いては、特別なことは起きないのだ。

私たちの目に映る中国人、アメリカ人(いつの間にか加わった)の自己愛的な振る舞いとは、結局彼らの国民性やそこで前提とされる事柄があまりに異質であることからくる、一種の錯覚という可能性もあるのである。