2015年7月21日火曜日

自己愛(ナル)な人(39/100)

一昨日は「日本語臨床フォーラム」 で、テーマは「あきらめ」。会場は京都教育大学。京都の南、伏見のこじんまりした大学。フォーラムでは相変わらず北山修先生はエネルギッシュだった。来年のテーマは「笑い」。これは難しいなあ。


「群生秩序」の理論
このようないじめの生じる手段の構造について巧みな説明を行っているのが、内藤朝雄氏の、「群生秩序」の理論である。内藤氏の描くいじめの世界は、私達が通常想像していたより遥かに深刻で恐ろしい。そこではいじめや犠牲者の死を悪いこと、痛ましいこととする通常の感覚や常識が通用しないような「普遍秩序」が存在する。そのような社会において一番大事なのは、今、ここの「ノリ」であり、それにしたがって犠牲者をいじめ、喜ぶことである。そして一番いけないのは、それに異議を唱えたり、そのような行為を悪いこととして制止しようとしたり、外部に相談したり訴えたりすることで、その集団のノリを制止しようとする試みである。そのように試みた人間はすぐさま、いじめられる側にされ、その社会で生きていけない。
 このような秩序の存在を前提とすることで、いじめに関与した人たちに見られる不可解で信じがたいような行為も理解可能となる。いじめの自殺が生じた際も、彼らには同情の念はなく、「Aが死んでせいせいした」とか 「Aがおらんけん暇や」「誰か楽しませてくれるやつ、おらんと?」という反応を見せるという。つまり「群生秩序」においてはいじめは正当化され、いじめられた人が自殺したとしても、それは仕方のないか音であるとされる。そしていじめに加担したとされる教師に対する同情が寄せられる。またいじめにより子供を失った親御さんは、いじめの首謀者を訴えようとしても、そうすることでその地域に居られなくなってしまう危機感を持つという。
 いじめの実態を知らない人は、いったいそんな世界があるのかと疑うであろう。しかし閉鎖された社会ではそれが起きうる。というより人間の生きている社会では、A秩序、B秩序、C秩序と言った秩序のすみわけが行われ、個人がそのどこに属するかによりどれに従うかが決まる。群生秩序においていじめに加担した人が普遍秩序に属している場合には、それまでの虐待者とは全く異なる常識に従うことになる。するとたとえば学校社会とは全く関連のない塾で出会った場合には、いじめっ子、いじめられっことは異なる関係性がそこに生じることになる。いじめ型のナルシシストが、常にどこでもそうだというわけではなく、状況依存的であり、群生秩序に属している時にだけ発揮されるということも生じてくる。
いじめ型ナルシシズムの本体

 ここで改めて、いじめ型ナルシシズムの本質について考えてみよう。いじめが行われている時、どのような自己愛の満足が体験されているのだろう? それは「自分たちはマジョリティであり、特別なんだ」という満足感や特権意識であろう。その際立った特徴は、それを複数の人間が共有しているということだといえる。これまで検討してきたいくつかのタイプのナルシシストにはなかった特徴がこれだ。そして内藤氏があげているのが、いじめに伴う他者をコントロールすることによる全能感であるという。人はまず心の中に不全感を抱えている。ところが「心理システムの誤作動」(内藤)が生じることで、「突然自己と世界が力に満ち」「すべてが救済されるかのようなあいまいな無限の感覚が生まれる」と説明する。
この自己愛的な満足が、後ろめたさや罪悪感により軽減されることはあるのだろうか?これは普遍秩序にのっとっている私たちの発想であろう。もちろんそれは無視できない。心の中で手を合わせながら、虐待に加担する人もいる。ただし群生秩序が浸透している場合には、おそらく非虐待者は通常の人間とは別に、おそらく贖罪の山羊のように目に移っている可能性がある。その集団の「ノリ」という絶対に侵すべからざるものものにとって必要な犠牲者。
私たちはこの群生秩序と類似性のあるものを、たとえばある種の教団や独裁政権の中に見ることが出来る。そこでは集団全体のノリの代わりに、独裁者、教祖様が絶対となり、その命令が善悪の判断を超える。「ポアする」ことが人類を救うと言われれば、その意味するところを批判できずに、優秀な学歴を持つ人間でも、地下鉄にサリンを蒔きに出かけてしまうのである。