2015年5月29日金曜日

あきらめと受け入れ(3)


あきらめと不在

なぜ諦めと不在なのか。それは私たち日本人は不在を愛(め)で、感謝するという心を持っていると思うからである。「詫び寂び」の心は物事が一時的にしか存在せず、やがて消えていくということを愛でるところにあると思う。在の中にすでに不在を見出しているところがあると言ってもいいだろう。私が将来この世からいなくなる。あるいは私は長年暮らしたアメリカのあの町から突然消え、彼らにとっては死んだも同然だろう。私が勤めていた前職場からは、私は完全に消えている。それでも私は彼らの心にある種の痕跡を残していることを知っている。それは私の目の前から消えた人が、転居した人でも、亡くなった人でも、私の中に痕跡を残しているからだ。そして、こんなことを言ってはナンだが、彼らはいなくなったことでより輝いているのである。
 たとえば私は母親には、電話で話していて3分も耐えられないほどのストレスを体験させられた。いかに実家に帰らない口実を設けるかを考えることも多かった。そしてそのような自分に後ろめたさも感じたものである。しかし今私の心に残っている母親は、実はよかった部分をことごとく残してくれているのである。私はそれをありがたいと思うし、母親が亡くなった時から、新たな関係が出来上がったとさえ考えている。不在がありがたいのは、私たちが自由に頭の中で相手のイメージを作り直す自由を与えてくれるからだ。そしてもちろん私は同じことを周囲の人々に対してしているはずである。生きている人間は我儘で、待ったが効かず、煩わしいものである。「生き物」である以上はそこに存在して、一定の場所を占拠し、一定の食物を必要とし、排泄する必要がある。自分一人でできることなど何もなく、ことごとく周囲に依存して声明を成り立たせている。考えてみれば不在が美化され昇華されるのは当たり前の話なのだ。
なぜこの問題が諦めと関係するかと言えば、不在を愛でることが出来るから、私たちは失うことに耐えることが出来るのである。私たちは毎日多くの人と出会い、多くのものを獲得し、そしておそらくそれに負けないくらいのペースで多くの人と別れ、多くのものを失っていく。でも失うことに耐えられるのは、私たちの記憶がそれを留めるからであり、そこからそれらとの新たな関係を作ることが出来るからであろう。