2015年5月28日木曜日

あきらめと受け入れ(2)

あきらめと希望
私は死すべき運命 mortalityを受け入れることは、人生に希望を失う事とは別のことであろうと考える。死すべき運命を受け入れた人が、毎日暗い顔をして過ごす、というのは変だ。死すべき運命を受け入れることは、毎日の生をそれだけ豊かにするものだからである。それはどうしてだろうか。「どうせ死ぬのだから」は、「今日生きていてもしょうがない」にはならない。「だからこそ今日、というより各瞬間が楽しい」になるのである。桜はどうせ散ってしまうから愛でる価値がない、と思うだろうか?明日は散ってしまうからこそ今日の桜が美しく見えるのではないだろうか?
私はこの死への覚悟の問題を、どうしても認知的なプロセスとして考えたくなる。たとえば朝目を醒まし、桜が咲いているか散っているかが気になるとする。外に出て枝を見上げると、昨日の風雨で散ってしまっている。あなたは悔しく悲しい思いをするだろうか?それともあきらめ、受け入れるだろうか? おそらくいつ散ってしまうかもわからない桜だからこそ愛でる人は、既に散った桜を見てもそれを受け入れる人なのである。ちょうど生を享受する人は、明日までの命とわかってもそれを受け入れるように。認知的には何が違うのだろうか?
例えば確率50パーセントの宝くじを、十分に覚悟を決めて買ったとする。(現実にはそんな確率の宝くじなどありえないが。)当たりだったら嬉しいだろう。しかし外れでもさほど落ち込んでしまうことはないかもしれない。それは外れの場合の心の準備もしていたからである。だからと言って当たった場合の喜びがそれだけ減じるという訳でもないだろう。半ばあきらめていただけに (まさに文字通り) 嬉しいという事もあるはずだ。桜をいずれは散るものとして見るとは、散った時の失望の準備をしているという事だ。いわば喪を半分はもう済ませていると言ってもいいだろう。
このように考えると、あきらめの境地にある人は、自分の持っているものに対する喪の作業を半ば済ませている、と考えることができるが、どうやってもを済ませることができるのだろうか?リネハンの「徹底した受容radical acceptance」の考えによれば、それは練習だという。ほんとかな?
ちょっと訳してみよう。(Radical Acceptance Sometimes problems can't be solved. Post published by Karyn Hall Ph.D. on Jul 08, 2012 in Pieces of Mind

徹底した受容(以下RA) は練習が必要となるようなスキルである。交通が渋滞しているとか、泳ぎに行こうと計画していた日に雨が降っている、とか、楽しみにしていたデートの日に相手が病気になった、などはいずれも何とか対応できなくてはならない。 そのようなときにはつらいが、「受容しないことの辛さ」をそこに付加しないようにしなくてはならない。愛する人を失うのは、誰にとってもつらいのだ。しかし受容はそこから回復することを意味する。現実に抵抗することは、回復を遅らす。・・・まず自分の呼吸に注意を集中せよ。あなたが持っているであろう思考、例えば「こんなはずじゃなかった」とか「これはフェアじゃない」などが過ぎ去るにまかせよう。そして自分自身に受容の言葉を与えよう。「これが現実なのだ」そしてこれを何度も何度も繰り返そう。