2015年4月9日木曜日

<治療者の心性> 最終稿


関係精神分析的な治療者には、ある種の世界観が共有されている。それは世界が基本的には不可知的で予想不可能であるということだ。患者の言動の力動的な背景も、治療者の患者への語りかけの影響も、正確には知りえない。Irwin Hoffman は精神分析的な真理は、「フロイトが考えたような実証主義的なそれではなく、私たちはみないずれ死ぬ運命にあるということ以外の現実は、常にあいまいで非決定論的であること」としている。Hoffman, IZ (2001) Sixteen Principles of Dialectic Constructivism.(unpublished Paper originally presented at the AmericanPsychoanalytic Assoiciation, 2001).
 関係精神分析は、現代の米国における精神分析の一つの大きな潮流となっている。そこにはAron, Bromberg, Benjamin,Hoffman, Stern, Gabbard といった論客が名をつられる。さまざまな立場の精神分析家たちがそこに集うという包含性こそが、関係精神分析の特徴であろう。そしてそこに共通している治療理念は、患者を病理を担った対象として観察し、扱うといった一者心理学的なモデルを排している。その代わり治療者と患者はともに関わり、治療場面を構成していくパートナーどうしであるという相互交流的な視点に立つのである。
関係論的な治療モデルに従う治療者の態度は、基本的には平等主義 egalitarian- nism に通じるといえるだろう。そしてそれは上述の包含性や相互交流的な視点に由来するといっていい。従来の一者心理学的な立場には、きわめて「上から目線的 patronizing」な色彩が濃かった。患者は「知らざる者」であり、治療者は「知る者」という前提がそこに見られる。知る立場にある治療者は一段高い立場から患者を観察し、そこで見えたものを解釈として患者に与える。ところが関係精神分析においてはその種の区別はなく、治療場面において生起するものは、あくまでも治療者と患者の共同制作である。一方が他方に向ける怒りも愛着も、いずれも両者の関係性の中で生じ、いずれかの心性や病理が一義的に表現されたものではない。Hoffman が、「患者の自由連想は治療者の無意識の解釈としての意味を持つ」(Hoffman, 1998)という時、この事情をさすが、ここには治療者=オーソリティ、患者=服従者、という図式を反転する可能性を持つのである。
この平等主義の立場があるからこそ、関係精神分析は外傷理論やフェミニズムを受け入れる素地になる。フロイト理論の持つ男根中心主義phallocentrism 的な考え方へのアンチテーゼがあるからこそ、関係精神分析はより多くの女性のセラピストの支持を得られやすいという背景がある。
Hoffman, I.Z. (1992) Social-constructivist view of analytic situation: Implication. Psychoanalytic Dialogues, 2:287-304.
Hoffman, I.Z. (1998) Ritual and Spontaneity in the Psychoanalytic Process. The Analytic Press, Hillsdale, London.
  
弁証法的な思考
関係精神分析が要請する治療者の思考プロセスは、臨床場面の様々な文脈で遭遇する二分法の弁証法的な超克と見なすことが出来る。Hoffman, Aron, etcJeremy D. Safran, PhD: Interview with Lewis Aron Psychoanalytic Psychology. 2009, Vol. 26, No. 2, 99–116 そこでは分析家は治療の一瞬一瞬に、複数の選択肢の間のバランスを取りつつ治療を進めることになる。Aron はそれを特に自律性 autonomyと関係性 relatedness の間のバランス、ないしは自己確立 self-definition と依存 dependency の間の弁証法と表現している。
 ここでいう弁証法的な試みの実際について述べてみたい。関係論的な治療者は常に両方のインプットを計測し按分する知的作業の実行者というイメージを持たれるかもしれない。ホフマンの著作にも数多くの弁証法的な理解に関する一見錯綜した議論がみられる。しかし関係精神分析によるバランス感覚は治療の各瞬間に立ち現れる選択肢を、臨床感覚を頼みに地道に選び取っていく作業の積み重ねなのである。
 分かりやすく治療構造を取り、それを遵守する方針と、逸脱する方針をとの間の弁証法を考えよう。より具体的には、患者がセッションの終了時に新たな話題を持ち出すという状況を考える。いわゆる「限界領域 liminal spaceHoffman,  における治療者の振る舞いの問題だ。治療者はセッションの終了を告げるか、話をしばし聞き続けるかのどちらかをその瞬間に臨床的な勘に従って選ぶとする。その際典型的な形では以下の懸念が心に生まれるだろう。
「自分は治療構造を逸脱することを恐れるあまり、患者の利益を最優先していないのではないか?」しかし他方には全く逆の方向の懸念、たとえば「自分は患者を援助することによる自己愛的な満足のために、あるいは患者に去られることへの恐れから、必要以上に治療構造を逸脱しているのではないか?」という考えが生まれるであろう。前者は治療構造を逸脱する方向へ、後者はそれを遵守する方向へ舵取りすることを促すのであり、治療者はそのうえで自分の行動に任せるのである。弁証法を生きるとはそのような営みである。ボートを漕ぐことを考えればわかるとおり、バランスを取るとは、その瞬間その瞬間に目標を逸れようとするボートの舳先を正すことに例えられるのだ。
 
平等主義と現実
これまで見た関係精神分析の平等主義的な立場は、結局は「人類はみな兄弟」的なロマンティシズムに通じているのではないか、という印象を与えるかもしれない。しかし関係精神分析は、過酷な現実への直面を促すものでもある。すでに冒頭で示したとおり、関係論的な真実の追及は私たちの死すべき運命や他者の不可知性の受容に関わる。そしてそれは他者を理解することの根本的な問い直しの作業をも促す。
Benjamin, J. (2007) Intersubjectivity, Thirdness, and Mutual Recognition Jessica Benjamin, Ph.D. A talk given at the Institute for Contemporary Psychoanalysis, Los Angeles, CA.
Benjamin, Jessica. (1995) Like Subjects, Love Objects. Essay on Recognition and Sexual Difference. Yale University Press, New Heaven and London.
たとえばBenjamin (2007)は次のように述べる。「お互いを認識するとは、相手が主体(よう) like subject 、すなわち独自の異なる感情や感覚の中心であると感じることであるmutual recognition, in which each subject feels the other as a like subject with a distinct, separate center of feeling and perception.」すなわち他人を知り、認めることとは、その他人が一つの主観性と主体性を持った、自分と同じだが異なる存在と見なすということである。
 私たちはしばしば自分が本当は何ものなのか、何を欲し何を求めているのかがわからなくなることがある。これは「自分とは何か?」について突き詰めて考える多くの人が誘い込まれる迷宮のようなものである。他方では、私たちは患者を含めた他者を容易に「わかっている」つもりになることが多い。特に従来の精神分析的な考え方に従えば、患者の自由連想や夢の内容から、その心の深層を理解し、解釈として伝えることが分析家として当然の役割と考える傾向にある。しかし私たちが他者をわかっていると感じた時、それは私たちの主観が描いている相手の内的対象像に向けられた体験であることを承知すべきであろう。そしてそのことを心得るためには、まず「自分自身のわからなさ」と折り合いをつけておくべきであろう。
関係精神分析における相互交流性は、治療関係において二つの主観がお互いに手探りをしながら分かり合おうと模索する作業として理解する。そこでは分析家の側は自らの「排除不可能な主観性 irreducible subjectivity (Renik, 1993) を受け入れ、それを治療に応用しようと試み、あるいは少なくとも患者の理解への支障となることを避けなくてはならない。そしてそれと同時に患者を対象として、ではなく一つの主体として、その不可知性も含めて受け入れていく作業が要請される。そしてそれはまた患者の側の他者理解の推進、メンタライゼーションの能力の促進にもつながる問題と言える。関係精神分析においては、この治療者の主観性 subjectivity、患者の主体性 subjectivity、およびそれを扱う上で付随するエナクトメントや自己開示の問題を通し、従来の精神分析をその全体から問い直す作業をも意味している。
Renik, O. (1993). Analytic interaction: conceptualizing technique in light of the analyst’s irreducible subjectivity. Psychoanal. Q.,62: 553–71
しかしこう考えるとたちまち悩ましい問題が浮かび上がる。これは愛着理論や発達理論に基づく分析理論とも共通するのであるが、これらは果たして精神分析なのだろうか? Freudの唱えた「患者が自らの無意識を知ること」と「患者が他者の主観を知ること」とはつながるのだろうか?もう「精神分析」以外の呼び方を考える方がいいのではないか?
私はこの種の疑問は多くの関係精神分析学者が一度は考えたことではないかと思う。