2015年4月14日火曜日

精神分析と解離(8)

フェレンチについて書き足りないことがある。それは森茂起先生の本にもあるのだが、フェレンツィ自身に性的被害の過去があったことを述べているということだ。フェレンツィはRNという相当パワフルな患者との治療で、自らが患者に分析されるということも含めた相互分析という試みを持つ。これはRN自身がセラピストであり、フェレンツィ自身が分析される必要性を説いたという経緯も関係していたということだが、「治療者の分析によって、治療者に自らへの反感や嫌悪が存在することを知った患者は、それによって落胆するよりもむしろ落ち着き、人格的に安定する方向に進んだ」(森茂起、同著、P122)「もう一つの相互分析の成果は、フェレンツィ自身が自らの過去を探ることで、子供時代の性的トラウマを自らの体験として認識したことである。それはメイドからの性的被害であった。フロイトと違い、自らの過去に性的トラウマを発見したフェレンツィにとって、子供に対する性的な営みが社会のあらゆる場所で行われていることは、否定できない事実となった。もう一つ、母親からの「お前は人殺しだ」という非難が深いトラウマ体験になっていること、そのために女性への憎悪が生じるとともに、その補償として、『苦しむ女性を救いたいという強迫的願望』を生んだことを彼は洞察する。」(以上、森、同著、P122
以上のことから一つの仮説として挙げられるのは、フェレンツィ自身が性的トラウマの犠牲者であり、そのために患者の病理を深く理解し、またそれに寄り添うような治療態度を提唱した、ということだろうか。しかしここで私見だが、ここでこの性的トラウマと彼自身がそれ以降に示した博愛的、愛他的な傾向との関連は、結局はわからないのではないだろうか?それは実はフェレンツィが犯した一種の境界逸脱についても言えるだろう。患者にひざまくらをする、キスをするというのはどう考えても治療者として逸脱しているが、その感覚は性的トラウマの犠牲者であるフェレンツィ自身が一番わかっていてしかるべきことだったのではないか?