2015年1月26日月曜日

恩師論 (4)


ところで先日NHKで錦織とマイケル・チャンの話をしていた。「恩師論」の途中なので、やはり見入ってしまった。わずか一年で錦織を変えたチャン。間違いなく恩師と言って良いだろう。そのチャンは、出会ったときとうとうとフェデラーへの敬愛の念を語る錦織に言ったと言う。「フェデラーを尊敬するなんておかしいよ。本来は戦って破る相手だろう?その相手に惚れ込んでどうするんだい?」的なことを言ったらしい。それからいろいろなメッセージを伝えた。反復練習をさせる、フォームを直す、もっとコートの前の方で戦え、など。チャンのコーチングでは、たくさんの「~しろ」が錦織くんに伝えられた。彼はおそらく「仕方なしに」「半信半疑で」従ったのだろう。そして同時に「自分を信じろ」と何度も繰り返して言ったのだ。
 自分を信じろ、という励ましについてはわかりやすい。勇気付け、岡村孝子さんの例のような背中押し。多くの恩師がこれをやるのだ。しかしたとえば「ジムでのトレーニングを、これまでの一時間から二時間増やせ」というのはなんだろう。どうして彼はチャンに言われるまで、それをしなかったのだろう?錦織くんは、実はトレーニングや反復練習は好きではなかったという。おそらくそれまでに彼にそれを勧めた人はいたのであろうが、チャンほど強いメッセージで彼にそれを促したことはなかったのだろう。それでは錦織くんはその躍進を一方的にチャンに負っているのだろうか?でもそもそもチャンに近づいてコーチを依頼したのは錦織くんのほうなのだ。フクザツ。
観客席で見つめるチャンは、錦織くんのポイントの一つ一つにリアクションを起こし、いわば彼と同一化して苦楽を共にする。錦織くんの成功は彼の成功、サービスの失敗は彼の落胆に直結している。いちいちガッツポーズを作ったり、頭を抱えたり。恩師が弟子に対して「そのためを思い」耳に痛いことをも言う。これは恩師として慕われる人の行動のひとつの大きな特徴だろうが、ではなぜそれが生じるのか。それは恩師の側の弟子への惚れ込みやリスペクトがある。一緒に一喜一憂する「に値する」弟子でなくてはならない。ということは、恩師と弟子の関係は親子関係のようなもの、お互いにコフートの言う自己対象としての意味を持つのだろう。

このように書いていると、錦織―チャンのカップルは、何か絵に描いたような弟子―恩師関係に見えてくる。私が「そんなのないよね」と言っていたような。そう、こういう幸運な組み合わせもあるのだろう。ただしすべての点で二人の息があっていたかどうかは、おそらく傍目からはわからない。世界ランキング二位まで行ったチャンにとって錦織くんが「現役時代の自分より格下」として認識されているとしたら。錦織くんの練習への情熱の薄さにイラっとすることがあったら?あるいは逆に彼の才能をチャンがねたましく思う瞬間があったなら?錦織くんにしてもチャンのことを煩わしく思い、常に一緒には痛くない存在と感じることもおそらくあるであろう。そう、絵に描いたような恩師は、やはり絵に描いたものに過ぎないのではないか、という思いも残る。やはりむしろ親子のようなものかもしれない。その関係は大概は(少なくとも子の側からは)「ちょっとあっちに行ってくれー」と敬遠するような、一緒にいるときを抜けないような存在なのである。